投稿

ラベル(古銭 Old Coin)が付いた投稿を表示しています

荒川銀判? Arakawa Silver Coin?

イメージ
I obtained a 5-monme (18.7 g) Arakawa silver coin from an internet auction. The Arakawa silver coin is a kind of commemorative coin minted at the Arakawa Mine, Akita, Japan, in the late 19th century. It is uncertain, however, that the one shown here is an entirely genuine one. サイズは 81.2 × 46.5 mm、重さは 18.9 g。ほぼ5匁(18.7 g)に等しい。真ん中に「一」と書かれた丸い極印と、「阿ら川」の極印が打たれる。 これは秋田県大仙市(旧協和町)の荒川鉱山で明治期につくられた、銀製の記念品・玩賞品の類で、「荒川銀判(あら川銀判・阿ら川銀判)」の名でよばれているものである。某ネットオークションで真贋不明品として入手した。 盛岡出身の実業家、瀬川安五郎(1835-1911)は、明治9年(1876)に荒川鉱山の鉱業権を得て、明治29年(1896)まで経営した。目にした文献を総合すると、荒川銀判は、 明治11年〜13年(1878-1880)にかけて、荒川鉱山での「直利(なおり;富鉱脈の発見)」を祝って瀬川がつくらせたもので、出資者や役人等に配った 明治29年(1896)、荒川鉱山を三菱に売却してヤマを去る際にもまとまった数をつくり、世話になった人たちに記念品として配った という。荒川鉱山、または近隣の畑(はた)鉱山産の銀でつくられており、ほぼ純銀に近いとされる。小判のような形をしていて、片面に槌目がほどこされる。サイズは各種あり、大きいもので50匁(187.5 g)、小さいもので10匁(37.5 g)と言われているが、過去のオークション履歴や文献をひもとくと、5匁(18.7 g)、100匁(375 g)の銀判も見出される。瀬川の店印である「◯に一」と「阿ら川」の文字の極印が打たれ、稀に「ひょうたん」の印もみられる。 右は秋田藩が文久年間に発行した「秋田銀判」で、量目は...

細倉当百 鉛銭 Hosokura-Tohyaku Lead Coin

イメージ
一辺約 58 mm、厚さ 7 mm、おもさが 195 g もある大型の鉛銭「細倉当百」。幕末のある時期に細倉鉱山で実際につかわれたらしい。 A large square lead coin of 58 mm in width and 195 g in weight. これはおそらく日本史上もっとも「重い」お金で、仙台藩が文久年間(1861〜1863年)に細倉鉱山(現在の宮城県栗原市鶯沢)の山内で通用させるためにつくったものだ。重さにはばらつきがあり平均 175 g とされるが、上に示したものは 195 g でやや特異的に重い。こんな重いお金は不便極まりないとおもうが、残存数が相当あることからして、短い期間ではあるが実際にある程度流通したものらしい。 一般に江戸時代の大きな鉱山は藩(場合によっては幕府直轄)の厳重な管理下におかれ、外部との交流が制限された。隠れて鉱産物を持ち出したり、外部の者が鉱山内で自由に商売したりするのを防ぎ、鉱山がもたらす利潤を独占するためである。だから鉱山関係者はすべての経済活動を鉱山内で完結せざるをえない傾向にあり、賃金の支払いや生活必需品の購入等は鉱山内でのみ通用する鉱山札の類でやりとりされる場合が多かった。実際細倉鉱山でもそうした紙幣が使用されていたようだが、なぜか幕末のある時期にこのとんでもなく重い鉛銭が発行された。これ一枚で百文の値打ちがあったとされるが、同じ当百文の天保通宝の 10 倍近い重さである。こうした地方限定のお金としては秋田藩でも鍔銭や波銭がつかわれているし、おなじような鉛銭は米沢藩でも発行された。なぜこうした地方貨がこの幕末期に雨後の筍のごとくあらわれたのか、いまだよく理解できないものがある。 This is definitely one of the heaviest coins in the Japanese history, issued by the Sendai clan in Bunkyu era (1861-1863) as a currency limited within the Hosokura lead mine (Uguisuzawa, Kurihara City, Miyagi Prefecture). The weight is 175 g in average...

寛永通宝 秋田銭 Kan'ei Tsuho Akita Mint

イメージ
左から古寛永通宝(1636年〜 φ24.4 mm × 1.0 mm 3.4 g)、新寛永通宝(1668年〜 φ25.4 mm × 1.2 mm 3.5 g)、寛永通宝秋田銭(1738年〜 φ23.6 mm × 0.9 mm 2.7 g)。初期銭である前二者は黄土色だが、秋田銭は色が赤黒い(錫成分が少ないためとおもわれる)。また「永」の右払いの先が折れ曲がっている。 From left to right: Old Kan'ei Tsuho (1636-), New Kan'ei Tsuho (1668-), and Kan'ei Tsuho Akita Mint (1738-). 寛永13年(1636年)、幕府は江戸浅草の橋場、その他数カ所に銅銭の鋳造所を開設し、一文銭「寛永通宝」を発行した。これは江戸時代に流通した最初の本格的な銅銭で、当時の混乱した貨幣経済情勢を一新するものだった(それまでは中国からの輸入銭やそれを模してつくった粗悪な私鋳銭・びた銭などが入り混じって通用していた)。この銅銭の発行は一時中断したが、しだいに流通量が不足してきたため、誕生から30年あまり後の寛文8年(1668年)、こんどは江戸亀戸に鋳造所を設けて新しい寛永通宝を発行した。収集家はそれまでの寛永銭を「古寛永銭」、リニューアルされたものを「新寛永銭」と区別している。これら寛永銭はその後200年以上の長きにわたって庶民間の売買等で広く使用されることになる。 寛永銭はいまで言えば10円玉みたいなものである。大量に必要な割に額面が低く製造コストがかかるので、幕府は鋳造所を全国各地に分散させてその経営を外部委託した。秋田藩では元文2年(1737年)11月に鋳造許可を得て、翌年4月から藩の事業として寛永銭を発行した。秋田領内には銅の産地が多く原料はふんだんにあったし、銅銭の発行は藩の利益にもなるので、まさに願ったり叶ったりである。なお元文年間には秋田以外にも京都、日光、大阪など多数の鋳造所が新規に設けられている。 冒頭の写真はその秋田製の寛永通宝を示したもので、現在の秋田市川尻(旧雄物川の至近で秋田刑務所の敷地のあたり)にて製造された。現存する寛永銭をみてそれが元文期の秋田で鋳造されたものか、そうでないかの区別はとてもかんた...

秋田でつくられた天保通宝 Tempo-Tsuho, Akita Mint

イメージ
天保通宝百文銭。右は江戸でつくられた正規品(本座長郭)で、1835年(天保6年)に通用開始した。いっぽう左は明治初年に秋田藩が密かに製造したもの(秋田広長郭)。色や書体、孔のデザインなどに微妙な違いがある。 Right: Tempo-tsuho 100-mon coin, the genuine Edo mint (1835-; Cho-kaku with an oblong inner rim). Left: A counterfeit minted by the Akita clan (1868-; Ko-cho-kaku with an oblong and wide inner rim). 幕末から明治初頭にかけて、秋田藩はさまざまな貨幣を独自につくった。とくに金属製の貨幣に関して言えば、前期と後期とでそれらの発行目的が異なるようにおもわれる。まず1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)までのものを仮に「前期貨」と呼ぶことにすると、これらは秋田領内に限って通用させるのが主たる目的だったようだ。当時の日本、とくに東北地方は度重なる飢饉などもあいまって経済状況が悪化し、貨幣不足が深刻化していた。そこで藩札・私札の類が乱発されたが、信用低下のためにそれらの値打ちはどんどん下がりインフレが起こった。社会不安から人々は正貨である金・銀貨を退蔵して、さらに貨幣不足におちいるという悪循環だった。こうした中で各地の大名が独自に発行したお金がいわゆる「幕末の地方貨」である。秋田の地方貨については、このブログでもすでに 秋田銀判 、 鍔銭 、 波銭 、 銅山至宝(鉛銭) を紹介した。これらは藩の財政を一時的にでもうるおし、またただの紙切れにすぎない藩札等にくらべれば、金属製のお金には信頼感があり、地方経済の安定に幾分かは貢献したものとおもわれる。 佐藤清一郎「秋田貨幣史」(1972年)の記述をもとに、幕末から明治初頭にかけて秋田藩が発行した各種貨幣の製造時期(または通用時期)を縦棒であらわした。正確な記録が残っているわけではないので、ここに示した時期はあくまで「おおまかな」ものである。また貨幣製造にかかわるできごとを白抜きの文字で示した。元治の金札とは幕府に願い出て発行を許された藩札。慶応の銭札というのもある。この時期はともかくあら...

秋田四匁六分銀判 Akita 4-Monme 6-Bu Silver Coin

イメージ
Size: 68.2 × 38.9 × 0.9 mm / Weight: 17 g 秋田藩が幕末に発行した銀貨。史料によると、文久2年(1862)に「封銀」とよばれる銀貨をつくり秋田領内で流通させたが、これは銀の使用量と貨幣価値との間に齟齬が合って評判がよくなかったので1年あまりで回収し、文久3年(1863)の秋に銀を増量したこの「銀判」を発行した。江戸時代の金貨で大判・小判というのがあるが、それと形状はおなじで材質が銀なので「銀判」と呼んでいる。上の写真はそのうち「四匁六分」(約17.3グラム)の重さがある銀判で、2分の貨幣価値があった(銀判2枚で小判1枚=1両に相当する)。これよりひとまわり大きい「九匁二分」(約34.5グラム)の重さがある1両銀判もある。これら2種の銀判は相当数発行されたらしく、現代の古銭ショップやオークションで頻繁に見かける。文献上は「一匁一分五厘」(約4.3グラム)の重さがある2朱(=1分の半分、1両の1/8)銀判も発行されたことになっているが、ほとんど現存しない。 純銀に近い品位でやわらかな光沢をはなつ。極印が打たれてへこんだ部分の銀の肌は黄色みさえ帯びている。ゆるやかな槌目が横に走っていて陰影を与えており、立体感を感じる。錆の感じも味わい深い。 秋田領内には院内銀山があり、昔から銀細工が盛んだった。この銀判がどこでつくられたのかは諸説あり判然とはしていないが、領内の腕利きの職人が秘密裏に集められて生産されたのかもしれない。江戸の本職がつくった小判みたいな厳密さこそないが、東北の野趣にあふれる工芸品といってもいい銀貨である。 A local silver coin used in the Akita domain, Japan, at the end of the Edo period. Another silver coin, Fu-Gin , was minted in 1862 to improve the loval economy, but it was soon rejected by people because of deficiency in silver content. The coin shown in the above photo was a repl...

銅山至宝 五十文銭 Dozan Shiho 50-Mon Coin

イメージ
Size: 43.3 × 31.6 × 2.4 mm / Weight: 29 g すでに紹介した 鍔銭(つばせん) 、 波銭(なみせん) につづき、これまた幕末に秋田藩が発行した銅貨。加護山製錬所で鋳造され、波銭と同様おもに阿仁鉱山や製錬所内でのみ通用したという。表側には「銅山至宝」の四文字、裏面には縦に「久二」、横に「五十」の文字が(かろうじて)読める。「久二」は文久二年(1862年)の初鋳であることを示していて、古い文献には鍔銭・波銭よりも製造開始時期がやや早いという記載がある。「五十」とはこれを五十文相当で通用させたことを示す。 成分は銅:鉛=8:2とされ、鍔銭・波銭よりも鉛成分が多い。古くから秋田の「鉛銭」とよばれている。鉛成分が多いためか、白っぽい錆が表面に吹き出ている。鍔銭や波銭が青錆(緑青)を吹くのとは対照的だ。裏面の右上隅には「秋」の極印が打たれる。 銅山至宝にはもうひとつ「百文銭」が存在する。書体にじゃっかんの相違があるものの、サイズが一回り大きくなっただけでみてくれは「五十文銭」とほぼ同じ。現代の古銭ショップには「五十文銭」のほうが多く流通しているような気がするが、佐藤清一郎「秋田貨幣史」によれば、むしろ「五十文銭」のほうが発行枚数が少なく、手に入れるのがむずかしいという。銅と鉛の融合がよくないからか脆く、破損したものも散見され、美品が少ないので、「愛泉家にはまさに至宝的存在」だと記している。 長方形の板状の貨幣で、真ん中に丸い穴があいているものは、すくなくとも日本では他に例がないだろう。鍔銭といい、波銭といい、加護山貨幣デザインコンクールの入賞3作品を実際につくってみた、としか思えないような独創的なデザインの銅貨を幕末の秋田藩は連発した。 This is one of local coins minted by the Akita domain at the end of the Edo period like Tsuba-sen and Nami-sen that have been shown in this blog. Produced at the Kagoyama Refinery, it was used within or around the Ani Mine ...

秋田波銭 Akita Nami-sen (Coin)

イメージ
Size: ϕ 42.5 × 3.6 mm / Weight: 41 g 秋田藩は幕末に独自の貨幣をいくつか発行したが、これもそのひとつ。 前に紹介した秋田鍔銭 とよく似たところがあり、たとえば 旧二ツ井町域内にあった加護山製錬所で、文久3年(1863年)頃から数年間鋳造されたこと、 材質は銅:鉛=9:1 程度の合金で、独特の赤味を帯びていること、 これ1枚で100文(いまの貨幣価値でいうとざっと1000円くらい?)の値打ちで通用させたこと、 などは共通の特徴といえる。鍔銭は秋田藩内で広く流通したが、この波銭は阿仁銅山や製錬所周辺でのみ通用したとされる。したがって発行枚数は比較的少なく、鍔銭ほど現存していない。地元の歴史研究家だった佐藤清一郎は著書「秋田貨幣史」で、波銭はなかなか手に入りにくく「近頃は精巧なニセものが多く出回っている」と記している。 表面(=貨面)のデザインは、数え方にもよるが7波21筋の青海波。これは「寛永通宝・四文銭」の初期のデザインとほぼおなじで、銭貨としてなじみ深い文様だったのだとおもわれる。裏面(=貨背)はのっぺりしていてまったく文様がなく、ただ「秋」の極印がおされているだけ。鉱山内のみの通用ということで、つくりも簡素である。波の太さの違いで「太波」「中波」「細波」に分類され、また裏面の「秋」の極印にも大中小の種類があるという。ここに紹介したものは「中波」で「中」の極印かとおもわれるが、判別に自信はない。不純物の違いか、表面仕上げの違いか、他の秋田藩の銅貨にくらべて赤味がはっきりしていて、独特のあたたかみを感じる。 Akita Nami-sen ("wave" coin) is one of the local coins minted by Akita domain at the end of the Edo period. Nami-sen is very similar to Tsuba-sen that has been shown in this blog in that they were produced at the Kagoyama Refinery since 1863, made of about 90% copper and 10% lea...

秋田鍔銭 Akita Tsuba-sen (Coin)

イメージ
Size: 52.5 × 48 × 3.5 mm / Weight: 50.5 g 幕末に秋田藩(久保田藩)が発行し、藩内でのみ通用させた銅貨。文久3年(1863年)から数年間の鋳造とされる。この時期になると幕府の力は衰え、経済状況も悪化した。とくに貨幣の流通量不足が深刻化したため、各地の大名が独自の貨幣を発行して経済の安定を図り、同時に藩の財源とした例がみられた(場合によっては幕府の許可なしに公然と「ニセ金」をつくった)。秋田鍔銭もそうした地方貨のひとつ。秋田藩内には阿仁、荒川、院内などの鉱山があり、金属資源に恵まれていたので、こうした銅貨はお手の物だった。 秋田県能代市(旧二ツ井町)にあった加護山製錬所で鋳造された。この地は銅山である阿仁鉱山と鉛山である太良鉱山との中間地点にあり、また能代港までの水運の便もよく、製錬や貨幣の鋳造をおこなうには好都合だった。当時の銅貨は、いまの10円玉と同様、銅にじゃっかんの錫を混ぜた青銅製のものが多いが、阿仁をはじめ秋田県内からは錫は産出しないので、微妙に赤味がかった色合いが特徴。銅:鉛=9:1の合金製とされるが、成分にはばらつきがあるという。 江戸期もしくはそれ以前の日本の古銭といえば「寛永通宝」みたいに文字だけが刻印されているのがふつうだ。もとより日本の銭貨は中国銭を模倣してつくった。貨幣としての威厳を保つためにある種の規格内におさめる傾向があり、デザインとしておとなしい。秋田鍔銭はその点ユニークな存在で、まったく文字がなく、鳳凰の絵と八卦文とが描かれているだけだ(側面に文久の「久」の字が刻印されている)。大ぶりで全体が日本刀の鍔のような形なのも他に例がなくおもしろい。世界的にみてもこんなコインは珍しいかもしれない。幕末という時代の転換期で、思想・文化の潮流の変化が影響したのだろうか。 はじめて古銭屋に踏み入れたのだが、店内には小判とか古金銀とか細かく分類された品々がいっぱい陳列されていて、これはやばい沼だなと身震いした。 A local copper coin minted by the domain of Akita, Japan, for several years since 1863, when the central government Bakufu 's pow...