秋田でつくられた天保通宝 Tempo-Tsuho, Akita Mint
幕末から明治初頭にかけて、秋田藩はさまざまな貨幣を独自につくった。とくに金属製の貨幣に関して言えば、前期と後期とでそれらの発行目的が異なるようにおもわれる。まず1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)までのものを仮に「前期貨」と呼ぶことにすると、これらは秋田領内に限って通用させるのが主たる目的だったようだ。当時の日本、とくに東北地方は度重なる飢饉などもあいまって経済状況が悪化し、貨幣不足が深刻化していた。そこで藩札・私札の類が乱発されたが、信用低下のためにそれらの値打ちはどんどん下がりインフレが起こった。社会不安から人々は正貨である金・銀貨を退蔵して、さらに貨幣不足におちいるという悪循環だった。こうした中で各地の大名が独自に発行したお金がいわゆる「幕末の地方貨」である。秋田の地方貨については、このブログでもすでに秋田銀判、鍔銭、波銭、銅山至宝(鉛銭)を紹介した。これらは藩の財政を一時的にでもうるおし、またただの紙切れにすぎない藩札等にくらべれば、金属製のお金には信頼感があり、地方経済の安定に幾分かは貢献したものとおもわれる。
いっぽう1868年(慶応4年/明治元年)から1870年(明治3年)にかけて発行されたものを「後期貨」とすると、これらは幕府発行の公式貨幣を模してつくったいわば「ニセ金」であり、秋田領外でも通用させようとした節がある。この時期の秋田藩は戊辰戦争の戦費や国防費の負担のために財政がはなはだしく悪化していた。そこで貨幣の密造が計画され、まず当時の高額貨幣である二分金と一分銀を模した貨幣がつくられた。これらの現存数はあまり多くないが、いずれも「銅山通宝」と刻印されており、名目上は阿仁鉱山内限りの通用としたことがうかがえる。これらをカムフラージュとして、裏では本物そっくりのニセ金を量産した可能性があるが、記録も現物もないので定かでない。二分金については、はじめは本物そっくりにつくろうとしたが、そんなことは雄藩のすることではないと自戒し断念したという記録が残っている。阿仁の山奥で密かに製造したらしいが、詳細は不明である。一分銀は秋田県北部の太良鉱山で製造されたらしいが、これもくわしい記録はない。二分金、一分銀の密造は他藩でもおこなわれていたというから、秋田でも同様のことを企てたとしてもおかしくはない。
さて前置きが長くなったが、タイトルにある天保通宝について。上の写真は秋田藩内の加護山製錬所(旧山本郡二ツ井町)で1868年(慶応4年/明治元年)から1870年(明治3年)にかけて密造されたとされる天保通宝である。このことを記した文書は残されていないが、元職人の証言や製錬所跡地から出た遺品などからおそらくまちがいない事実だろう。同時期の加護山では他にも寛永通宝(一文銭)の密造もおこなっており、これらを領内のみならず、全国にも通用させようと企てたことは明らかである。
江戸でつくられた正規銭との主な違いは、
- 純銅に近いため独特の赤味を帯びた色を呈すること
- 「通」字のしんにょうの最後の払いの部分が、大きく下に湾曲して右上にすうっと伸びていること
- きめ細かい砥石ではなく、金ヤスリのようなもので仕上げがされていてその跡がのこっていること
- 鋳肌がざらざらしていること
など。特徴 3 と 4 は他藩が密造した天保銭の一部にも共通してみられるが、特徴 1 と 2 は秋田藩鋳銭独特のものである。この天保通宝は、郭(四角い孔を縁取っているちょっと盛り上がった部分)の幅が広く、かつ微妙に縦長なので、収集家はこれを「広長郭(こうちょうかく)」と呼んでいる。
つぎの写真も秋田藩がつくった天保通宝。郭が広いのはおなじだが正方形に近いので「広郭(こうかく)」と分類されている。やや汚れているが、地の色はやはり赤っぽい。広長郭とは面文も微妙に異なる。
天保通宝は「当百銭」で、これ1枚で100文相当の価値があった。幕末頃には価値がずいぶん下がったらしいが、それでもいまで言えば「500円玉」どころか「1000円玉」にも相当する比較的高額な貨幣である。したがってこれを大量に偽造すればかなりの利益があっただろう。明治になってもしばらくは天保通宝は通用し続けた。しかし明治4年の政令で天保銭1枚は「8 厘」(1円=100銭、1銭=10厘)と定められたので、いまで言えば「50円玉」にも満たないくらいの小額貨幣に落ちぶれてしまった。
補足
ここに書いてあることは、おもに
- 佐藤清一郎「秋田貨幣史」(みしま書房、1972年)
によった。わたしは著者の言わんとするところを完全に理解していないかもしれず、多少誤解した部分もあるとおもわれる。あしからずご了承ください。その他、
- 「日本の貨幣 収集の手引き」(日本貨幣商協同組合、2021年)
- 瀬戸浩平「古銭 その鑑賞と収集」(増補版、読売新聞社、1969年)
- 今井忠男・千田恵吾「阿仁鉱山および加護山製錬所において製造された貨幣について」(出土銭貨 32号 p.75、2013年)
も参考にした。
天保通宝はいまの10円玉とおなじ青銅製で、公式には銅78%、鉛12%、錫10% とされる。江戸の金座でつくられたもの(本座銭)は品質にばらつきが少なく、色は黄土色である。今井と千田の分析によれば、秋田の天保銭は正規のものに比べて錫・鉛成分が少なく、より純銅に近い。独特の赤色はこれに起因する。なお錫は硬度を上げて傷つきにくくする効能があるので、少ないとはいえ 3〜5% ほどの含有量はある。秋田県内からは錫は産出しないので、領外から買い入れたようだ。色は犠牲にしてでも、できるだけ錫を節約して製造コストを抑えたのだとおもわれる。
「秋田貨幣史」によると、秋田藩鋳造の天保通宝は「百枚中に一、二枚見られる」そうだ。佐藤が記しているこの割合が「秋田近辺で出てくる天保銭のうち 1〜2%」なのか、「全国的に平均して 1〜2%」なのかで話は変わってくるだろうが、明治初頭に流通していた天保銭の枚数が「億単位」だったとして、秋田藩がおこなった密造がざっと「百万枚単位」に達する大規模なものだったことは容易に想像される。加護山はそもそも阿仁鉱山で産出する銅や銀の製錬所であり、大規模な溶融炉が日夜稼働していたことから、従事する職人の数にもよるが、この程度の鋳造は容易だったとおもわれる。
秋田藩が天保通宝の密造に「手を染めた」のは戊辰戦争前後の1868年(慶応4年/明治元年)頃とされる。「秋田貨幣史」にはその根拠が明記されていないが、おそらく元職人の証言によっているのだろう。布川新三郎が明治36年(1903年)に東京古泉協会雑誌に発表した「秋田阿仁銅山の天保銭について」に記されているものと推測するが、何分未見なのでなんとも言えない。
明治初年頃にもなると天保銭の価値はだいぶ下落したので、通貨偽造の利益はそこまで出なかったのかもしれない。ちなみに薩摩藩はその5年前くらいからすでに天保銭の大量密造をおこなっており、瀬戸によればその総額は290万両(ざっと1億枚!)にもおよんだという。福岡藩も金銀貨や紙幣を大量に偽造したが、のちに発覚して藩の取り潰しにも匹敵する処分を受けた(太政官札贋造事件)。秋田人にこういう「図太さ」がなかったところが、よくも悪くも田舎の実直さというか、純朴さをあらわしているような気がする。少なくとも秋田の「前期貨」は領内の通用にとどまっており、幕府の家臣として当時はそんな大それたことはできなかったのだろう(まあ知られてないだけで実は裏でニセ金をつくっていたかもしれないが)。
秋田の天保銭には広長郭、広郭の他に「細郭(さいかく)」がある。広長郭がもっとも多く、細郭がもっともレアである。これらは母銭(種銭)を新規に彫ったので、その独特の書体・デザインから判別は容易である。加護山からも同じデザインの天保銭が出土しており、有力な証拠になっている。いっぽう「秋田小様(しょうよう)」と呼ばれる天保銭があり、やはり秋田藩の鋳造と推定されている。これは本座銭をそのまま(または多少加工して)種にしたので、書体のみから他の密鋳銭と区別するのはむずかしい。合金の色合いなどから収集家はこれを秋田鋳と分類しているようだ。