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Showing posts from September, 2021

寛永通宝 秋田銭 Kan'ei Tsuho Akita Mint

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左から古寛永通宝(1636年〜 φ24.4 mm × 1.0 mm 3.4 g)、新寛永通宝(1668年〜 φ25.4 mm × 1.2 mm 3.5 g)、寛永通宝秋田銭(1738年〜 φ23.6 mm × 0.9 mm 2.7 g)。初期銭である前二者は黄土色だが、秋田銭は色が赤黒い(錫成分が少ないためとおもわれる)。また「永」の右払いの先が折れ曲がっている。 From left to right: Old Kan'ei Tsuho (1636-), New Kan'ei Tsuho (1668-), and Kan'ei Tsuho Akita Mint (1738-). 寛永13年(1636年)、幕府は江戸浅草の橋場、その他数カ所に銅銭の鋳造所を開設し、一文銭「寛永通宝」を発行した。これは江戸時代に流通した最初の本格的な銅銭で、当時の混乱した貨幣経済情勢を一新するものだった(それまでは中国からの輸入銭やそれを模してつくった粗悪な私鋳銭・びた銭などが入り混じって通用していた)。この銅銭の発行は一時中断したが、しだいに流通量が不足してきたため、誕生から30年あまり後の寛文8年(1668年)、こんどは江戸亀戸に鋳造所を設けて新しい寛永通宝を発行した。収集家はそれまでの寛永銭を「古寛永銭」、リニューアルされたものを「新寛永銭」と区別している。これら寛永銭はその後200年以上の長きにわたって庶民間の売買等で広く使用されることになる。 寛永銭はいまで言えば10円玉みたいなものである。大量に必要な割に額面が低く製造コストがかかるので、幕府は鋳造所を全国各地に分散させてその経営を外部委託した。秋田藩では元文2年(1737年)11月に鋳造許可を得て、翌年4月から藩の事業として寛永銭を発行した。秋田領内には銅の産地が多く原料はふんだんにあったし、銅銭の発行は藩の利益にもなるので、まさに願ったり叶ったりである。なお元文年間には秋田以外にも京都、日光、大阪など多数の鋳造所が新規に設けられている。 冒頭の写真はその秋田製の寛永通宝を示したもので、現在の秋田市川尻(旧雄物川の至近で秋田刑務所の敷地のあたり)にて製造された。現存する寛永銭をみてそれが元文期の秋田で鋳造されたものか、そうでないかの区別はとてもかんた

シュイコウシャンの閃亜鉛鉱 Sphalerite from Shuikoushan

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Shuikoushan ore field, Changning County, Hengyang, Hunan, China 中国湖南省衡陽市常寧市 水口山鉱山 width: 5 cm / weight: 17.5 g 細かいキラキラした石英で覆われた鉱片上に、径 7 mm までのやや明るい褐色透明の閃亜鉛鉱の結晶、いわゆるべっ甲亜鉛がくっついている。産地のシュイコウシャン(水口山)地域は中国でも有数の規模の鉛・亜鉛鉱床が知られ、いまも現役で採掘されている。世界の金属鉱山が閉山していくなか、ジェム品質の閃亜鉛鉱の供給地として貴重な存在であろう。 鉱物あつめの熱は最近やや停滞気味なのだが、毎年恒例の秋葉原のミネラルフェアがやってたので、近所だし行ってみた。行くと買ってしまうのが困ったものだ。 Brown transparent sphalerite crystals to 7 mm in size are scattered with minute quartz. Shuikoushan ore field is known as one of the largest lead-zinc deposits in China. The mines are still active, providing clear sphalerite specimens to world mineral collectors. 反対側も結晶している。

お多福の絵盃 A Kutani Otafuku cup

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19世紀末〜20世紀前半。径は約 5.5 cm。 Late 19th century to early 20th century 骨董屋によると明治〜昭和初期頃の九谷焼の盃だという。お膳の上に裏返した状態で置かれているときは鬼の顔、ひっくり返してお酒をのむときはお多福の絵というわけで、まさに「鬼は外、福は内」のとんちが利いていておもしろい。 A Kutani ware made in Meiji to early Showa periods. This is a sake cup of a woman's face ( otafuku / okame ) that is believed in Japan to bring on good fortune, but the bottom is a devil's face. This means happiness shall be inside and bad things outside. 裏側は鬼の顔。 銘がいまいち解せない。「九」字と「古」字のあいだに「点々」が打たれているように見える。「九谷」っていうことなんだろうか? 追記 この手の盃は「鬼面盃」とか「お多福盃」とか「節分盃」などと呼ばれ、古くは江戸期からあったものらしい。明治〜大正時代にかけて九谷、備前、佐渡など各地で盛んにつくられたという。 玩盃庵さんの珍盃コレクション 。鬼面盃もたくさん展示されている。 よーさんのコレクション 。

マイクロマジック

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ポテポテキュン! TBSラジオ ハライチのターン

秋田でつくられた天保通宝 Tempo-Tsuho, Akita Mint

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天保通宝百文銭。右は江戸でつくられた正規品(本座長郭)で、1835年(天保6年)に通用開始した。いっぽう左は明治初年に秋田藩が密かに製造したもの(秋田広長郭)。色や書体、孔のデザインなどに微妙な違いがある。 Right: Tempo-tsuho 100-mon coin, the genuine Edo mint (1835-; Cho-kaku with an oblong inner rim). Left: A counterfeit minted by the Akita clan (1868-; Ko-cho-kaku with an oblong and wide inner rim). 幕末から明治初頭にかけて、秋田藩はさまざまな貨幣を独自につくった。とくに金属製の貨幣に関して言えば、前期と後期とでそれらの発行目的が異なるようにおもわれる。まず1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)までのものを仮に「前期貨」と呼ぶことにすると、これらは秋田領内に限って通用させるのが主たる目的だったようだ。当時の日本、とくに東北地方は度重なる飢饉などもあいまって経済状況が悪化し、貨幣不足が深刻化していた。そこで藩札・私札の類が乱発されたが、信用低下のためにそれらの値打ちはどんどん下がりインフレが起こった。社会不安から人々は正貨である金・銀貨を退蔵して、さらに貨幣不足におちいるという悪循環だった。こうした中で各地の大名が独自に発行したお金がいわゆる「幕末の地方貨」である。秋田の地方貨については、このブログでもすでに 秋田銀判 、 鍔銭 、 波銭 、 銅山至宝(鉛銭) を紹介した。これらは藩の財政を一時的にでもうるおし、またただの紙切れにすぎない藩札等にくらべれば、金属製のお金には信頼感があり、地方経済の安定に幾分かは貢献したものとおもわれる。 佐藤清一郎「秋田貨幣史」(1972年)の記述をもとに、幕末から明治初頭にかけて秋田藩が発行した各種貨幣の製造時期(または通用時期)を縦棒であらわした。正確な記録が残っているわけではないので、ここに示した時期はあくまで「おおまかな」ものである。また貨幣製造にかかわるできごとを白抜きの文字で示した。元治の金札とは幕府に願い出て発行を許された藩札。慶応の銭札というのもある。この時期はともかくあら