寛永通宝 秋田銭 Kan'ei Tsuho Akita Mint

左から古寛永通宝(1636年〜 φ24.4 mm × 1.0 mm 3.4 g)、新寛永通宝(1668年〜 φ25.4 mm × 1.2 mm 3.5 g)、寛永通宝秋田銭(1738年〜 φ23.6 mm × 0.9 mm 2.7 g)。初期銭である前二者は黄土色だが、秋田銭は色が赤黒い(錫成分が少ないためとおもわれる)。また「永」の右払いの先が折れ曲がっている。
From left to right: Old Kan'ei Tsuho (1636-), New Kan'ei Tsuho (1668-), and Kan'ei Tsuho Akita Mint (1738-).

寛永13年(1636年)、幕府は江戸浅草の橋場、その他数カ所に銅銭の鋳造所を開設し、一文銭「寛永通宝」を発行した。これは江戸時代に流通した最初の本格的な銅銭で、当時の混乱した貨幣経済情勢を一新するものだった(それまでは中国からの輸入銭やそれを模してつくった粗悪な私鋳銭・びた銭などが入り混じって通用していた)。この銅銭の発行は一時中断したが、しだいに流通量が不足してきたため、誕生から30年あまり後の寛文8年(1668年)、こんどは江戸亀戸に鋳造所を設けて新しい寛永通宝を発行した。収集家はそれまでの寛永銭を「古寛永銭」、リニューアルされたものを「新寛永銭」と区別している。これら寛永銭はその後200年以上の長きにわたって庶民間の売買等で広く使用されることになる。

寛永銭はいまで言えば10円玉みたいなものである。大量に必要な割に額面が低く製造コストがかかるので、幕府は鋳造所を全国各地に分散させてその経営を外部委託した。秋田藩では元文2年(1737年)11月に鋳造許可を得て、翌年4月から藩の事業として寛永銭を発行した。秋田領内には銅の産地が多く原料はふんだんにあったし、銅銭の発行は藩の利益にもなるので、まさに願ったり叶ったりである。なお元文年間には秋田以外にも京都、日光、大阪など多数の鋳造所が新規に設けられている。

冒頭の写真はその秋田製の寛永通宝を示したもので、現在の秋田市川尻(旧雄物川の至近で秋田刑務所の敷地のあたり)にて製造された。現存する寛永銭をみてそれが元文期の秋田で鋳造されたものか、そうでないかの区別はとてもかんたんだ。「寛永通寳」の「永」字の右払いをみて、先っぽがカクっと折れ曲がっていれば秋田銭、まっすぐだったらよそのものである。秋田藩はこの自前の一文銭を大阪商人との商品取引の支払いにあてていいという許可を得たのだが、調子に乗って想定以上につかってしまい、結果大阪の銭相場を混乱させたため、のちに幕府に怒られて使用を中止せざるを得なくなった。見る人がみればその寛永銭が秋田鋳かどうかすぐにわかるので、大量使用がバレたのである。幕府としては、地方鋳造の寛永銭は当地で流通させるのが基本というか暗黙の了解だったのだろう。

秋田の鋳銭所は幕府の命令により7年あまりで閉鎖された。その後秋田藩で鋳銭を公式に許可されることはなかったが、幕末から明治初頭の混乱期に独自のデザインの貨幣(地方貨)や「ニセ金」をつくったことは前に述べたとおり。

Kan'ei Tsuho was the first Japanese copper coin widely used by common people in the Edo period (1600-1860). The value of this coin was 1 mon, the smallest unit at that time. As it costs much to mass-produce such cheap coins, the Edo government allowed local governors to issue Kan'ei coins at times. In the Akita territory, minting was allowed in 1737 and lasted until 1745. It is easy to tell a Kan'ei coin is Akita Mint or not. The lower-right tip of the bottom character (永) bends if it was made in Akita. The Akita clan payed Osaka merchant by this Akita coin more than permitted, disturbing the exchange rate between copper and gold/silver coins in Osaka. As there were many copper mines in Akita, minting could be managed with less costs and lots of Kan'ei coins were produced. The Akita clan was not able to issue metal money after that, but at the very end of the Edo period, Akita produced several original coins as I have shown in this blog (ex. Tsuba-sen, Nami-sen, Akita silver).

秋田銭のバリエーション。左から大字(冒頭のもの)、中字(φ23.1 mm × 1.1 mm、2.6 g)、小字(φ23.3 mm × 0.9 mm、2.5 g)。
Some variants of Akita Kan'ei coins. Large, middle and small characters from left to right.

補足

  • 参考にした本:

    • 佐藤清一郎「秋田貨幣史」(みしま書房、1972年)
    • 瀬戸浩平「古銭 その鑑賞と収集」(増補版、読売新聞社、1969年)
    • 「日本の貨幣 収集の手引き」(日本貨幣商協同組合、2021年)
    • 「新寛永通宝図解譜」(新寛永クラブ、2015年)
  • 収集家は秋田の寛永銭をその面文の文字の大きさにより「大字」「中字」「小字」の3種類に大別している。このうち「大字」がもっとも多く、「中字」もそれに次いで多く、「小字」がもっともレアである。「大字・中字」と「小字」の違いはわかりやすい。収集家以外はあんまり興味がないとおもうが、「小字」は全体に字のサイズが小さくてシュッとしていることに加えて、

    • 「寶」の足(末画の「ハ」の部分)の右側の先っぽが跳ねないこと(大字・中字はかぎ針の先みたいに折れ曲がる)

    が特徴的だ。いっぽう「大字」と「中字」のちがいはやや微妙である。字の大きさのちがいは2つを比較してはじめてわかるくらいだが、わたしにとっては、

    • 「通」のしんにょうの底画をみると、大字は水平に近いのに対して、中字は右下に斜めになっていること
    • 「寛」の末画の跳ねに関して、大字は上にまっすぐ豪快に、中字は内側に控えめに跳ねていること
    • 中字の場合、「寶」のウ冠が微妙に左さがりであること

    がわかりやすかった(他にもいろいろ鑑別のしかたがある)。また収集家はさらにこれら3種類の中に亜種を定義して収集価値を高めている。

  • 「大字」と「中字」のちがいはややわかりずらいが、現に日本貨幣商協同組合発行の「日本貨幣カタログ」(2021年)の「秋田大字」の拓は実際は「秋田中字」のそれである。編集の最中にとりちがえたか、単なる勘違いか、そもそも分類の基準が古銭業界で混乱しているか、だろう。

  • 秋田銭は直径8分(24.2 mm)、重さも8分(3.0 g)が標準であったが、実際はそれより小さく、軽いものが多い。原料である銅、鉛、錫のうち、秋田では産出しない錫やその他諸々の鋳銭道具を大阪等から買い入れたが、その費用がかさんだため、なるべく軽くして原料代をケチったものと想像される。

  • 元文3年(1738年)から延享2年(1745年)まで約7年間つづいた鋳銭だったが、途中、寛保2年(1742年)には量目を6分5厘(2.4 g)に下げてもよいという許可を公式に得ている。一説にはこのときあらたにつくった種銭が「小字」だったとされ、「大字・中字」より文字の大きさだけでなく、銭自体も小型・軽量化されているという。

  • 一文銭で比較的高額の取引をするときは、真ん中の孔にひもを通して96枚をひとまとめにして、これを100文として通用させるのが通例であった。この「さし」が10個あれば1貫文で、40個くらいあれば(銭相場による)1両、すなわち小判1枚分になる。秋田の寛永銭が大阪に大量流入し、商人がそれを金や銀貨に両替すると、大阪の金銀が相対的に不足することになり、相場が不安定になる。そのくらいの量の寛永銭を秋田藩は製造・乱用したということらしい。秋田はもともと産銅国だったが、単に地金を売るより、一文銭に加工して貨幣としてつかったほうが製造コストを差し引いても利益があったということだろう。

追記・川尻散歩

秋田の銭座跡の周辺を散歩した(2021年12月14日)。

秋田刑務所の正門近くに立つ標柱。秋田銭座は実際は刑務所の敷地内にあった。説明文は以下のとおり:秋田藩は元文二年(1737)幕府の許可を受け、翌三年銭座を新設して鋳銭を開始した。ここで鋳造された「寛永通宝」は「虎の尾はじき永のしるし」という特徴を持ち、材料の銅と鉛は藩内産を用い、錫は大坂(大阪)から購入した。延享二年(1745)幕府の中止命令により廃止された。当時の銭座稲荷は保戸野鉄砲町に移されている。
新川橋から旧雄物川の上流方向を望む。江戸時代はここが雄物川の本流であり、県南部のさまざまな産物が集積する場所であった。「雄物川放水路」が造成されて以降は「秋田運河」としてローカルな水運の役割をになっている。
刑務所の正門側からみて裏側にあたる、旧雄物川近くに立つ「薪炭置場」の標柱。説明文は以下のとおり:秋田藩の用度及び藩士の給与用に薪炭を蓄えていた所である。薪炭は雄物川を利用して県南地方から運ばれてここに積み上げられ、近くには薪炭役所が置かれていた。
新川橋の近くにある油井。INPEX(旧帝国石油)の雄物川A基地。八橋油田の一部で、いまでもほそぼそと生産しているようだが、ここの油井はすでに一部撤去されている。