秋田四匁六分銀判 Akita 4-Monme 6-Bu Silver Coin

Size: 68.2 × 38.9 × 0.9 mm / Weight: 17 g

秋田藩が幕末に発行した銀貨。史料によると、文久2年(1862)に「封銀」とよばれる銀貨をつくり秋田領内で流通させたが、これは銀の使用量と貨幣価値との間に齟齬が合って評判がよくなかったので1年あまりで回収し、文久3年(1863)の秋に銀を増量したこの「銀判」を発行した。江戸時代の金貨で大判・小判というのがあるが、それと形状はおなじで材質が銀なので「銀判」と呼んでいる。上の写真はそのうち「四匁六分」(約17.3グラム)の重さがある銀判で、2分の貨幣価値があった(銀判2枚で小判1枚=1両に相当する)。これよりひとまわり大きい「九匁二分」(約34.5グラム)の重さがある1両銀判もある。これら2種の銀判は相当数発行されたらしく、現代の古銭ショップやオークションで頻繁に見かける。またほとんど現存していないが「一匁一分五厘」(約4.3グラム)の重さがある2朱(=1分の半分、1両の1/8)銀判も存在する。

純銀に近い品位でやわらかな光沢をはなつ。極印が打たれてへこんだ部分の銀の肌は黄色みさえ帯びている。ゆるやかな槌目が横に走っていて陰影を与えており、立体感を感じる。錆の感じも味わい深い。

秋田領内には院内銀山があり、昔から銀細工が盛んだった。この銀判がどこでつくられたのかは諸説あり判然とはしていないが、領内の腕利きの職人が秘密裏に集められて生産されたのかもしれない。江戸の本職がつくった小判みたいな厳密さこそないが、東北の野趣にあふれる工芸品といってもいい銀貨である。

A local silver coin used in the Akita domain, Japan, at the end of the Edo period. Another silver coin, Fu-Gin, was minted in 1862 to improve the loval economy, but it was soon rejected by people because of deficiency in silver content. The coin shown in the above photo was a replacement that increased the silver usage. The coin is called Gin-Ban because the shape was similar to Japanese gold coins, Ko-Ban and Oh-Ban. The above weighs 4 monme 6 bu, which is equal to 17.3 g. There is another 9-monme 2-bu coin. Gin-Ban is silver rich with a color that is rather yellowish especially at the engraved part. There is a subtle wavy pattern on the face, and the natural rust is nice. It seems to me that this coin is rather a local craft product in the Tohoku district.

「四匁六分」の右肩にある「改」の極印は下半分が欠落している。裏面の「秋」の極印も不完全だが、単に職人の打ち損じなのか、なにか逆に意味があるのかは不明。その他「裕」の極印が表に4個、裏に4個打たれる。
The marks of 改 (certificate) and 秋 (the first character of Akita) are incomplete. I don't know this is a result of lazy work or it has some meaning.

補足

  • 「改」の文字を○で囲った極印が打たれた銀判も存在する。佐藤清一郎「秋田貨幣史」(1972年)によると○枠のあるなしは製造所の違い(院内か阿仁か)を示す可能性があるが、確証はないという。ちなみに九匁二分銀判の「改」極印はほぼ例外なく○枠で囲ってあり、○なしはきわめてまれ。

  • 南鐐コイン・スタンプ社の清水恒吉氏がホームページで述べているところによると、極印が不完全な「半端打ち」はこの手の銀貨の場合むしろよくあることで、たとえば秋田封銀の極印はその 90% が半端打ちだそうである。大判金は代々後藤四郎兵衛家が製造したが、とくに享保以前の大判の桐極印はこうした斜め打ちのものが多いという。清水氏の見解によると流れ作業の結果、自然とそうなるものらしい。なにか「不完全」なものをむしろよしとする、ゆるい江戸の価値観をあらわしているような気がする。

補足(2024年4月)

橋本宗彦編「秋田沿革史大成 上巻」(明治29年)に以下の記述がある:

  • ご領内限り差し出され候、極印銀(註:銀判のこと)は、四匁六分のほか、左のとおり。

    • 九匁二分(金一両の代に用い申すべきこと)
    • 一匁一分五厘(金二朱の代に用い申すべきこと)

    文久三年十一月

この通達は、すでに発行されている、みなさんご存知の四匁六分銀判の件ですが、このたび九匁二分と一匁一分五厘も発行する予定ですので、ご周知方よろしくおねがいします、のようなニュアンスを感じる。とすれば、四匁六分の発行が先行していて、その際、「改」の極印に丸枠はなかった、その後、九匁二分と一匁一分五厘も製作するにあたって、「改」に丸枠をつけた新しい極印をつくったということを示唆し、四匁六分には丸枠のあるなしがあり、九匁二分にはほぼすべて丸枠がある、という事実と整合するようにおもう。また文久三年(1863年)十一月の時点では一匁一分五厘の発行も計画していたが、その後、あまり需要がないと見込んで、発行をとりやめたのかもしれない。