銅山至宝 五十文銭 Dozan Shiho 50-Mon Coin
すでに紹介した鍔銭(つばせん)、波銭(なみせん)につづき、これまた幕末に秋田藩が発行した銅貨。加護山製錬所で鋳造され、波銭と同様おもに阿仁鉱山や製錬所内でのみ通用したという。表側には「銅山至宝」の四文字、裏面には縦に「久二」、横に「五十」の文字が(かろうじて)読める。「久二」は文久二年(1862年)の初鋳であることを示していて、古い文献には鍔銭・波銭よりも製造開始時期がやや早いという記載がある。「五十」とはこれを五十文相当で通用させたことを示す。
成分は銅:鉛=8:2とされ、鍔銭・波銭よりも鉛成分が多い。古くから秋田の「鉛銭」とよばれている。鉛成分が多いためか、白っぽい錆が表面に吹き出ている。鍔銭や波銭が青錆(緑青)を吹くのとは対照的だ。裏面の右上隅には「秋」の極印が打たれる。
銅山至宝にはもうひとつ「百文銭」が存在する。書体にじゃっかんの相違があるものの、サイズが一回り大きくなっただけでみてくれは「五十文銭」とほぼ同じ。現代の古銭ショップには「五十文銭」のほうが多く流通しているような気がするが、佐藤清一郎「秋田貨幣史」によれば、むしろ「五十文銭」のほうが発行枚数が少なく、手に入れるのがむずかしいという。銅と鉛の融合がよくないからか脆く、破損したものも散見され、美品が少ないので、「愛泉家にはまさに至宝的存在」だと記している。
長方形の板状の貨幣で、真ん中に丸い穴があいているものは、すくなくとも日本では他に例がないだろう。鍔銭といい、波銭といい、加護山貨幣デザインコンクールの入賞3作品を実際につくってみた、としか思えないような独創的なデザインの銅貨を幕末の秋田藩は連発した。
This is one of local coins minted by the Akita domain at the end of the Edo period like Tsuba-sen and Nami-sen that have been shown in this blog. Produced at the Kagoyama Refinery, it was used within or around the Ani Mine and Kagoyama area as well as Nami-sen. The face reads Dozan Shiho, which means the treasure of the (Ani) copper mine, and the backside characters mean that it was first minted in 1862 and used as the value of 50 mon. It is richer in lead than Tsuba-sen and Nami-sen, which would be a reason for whitish rust on the face. There is another 100-mon coin, and this 50-mon coin is much rarer. Dozan Shiho is a unique coin in the rectangular shape with a circular hole at the center. The Akita domain produced very unique three coin types at the end of the Edo period. I cannot help speculating that there held a coin design competition at the Kagoyama Refinery and the top three award winners were adopted as new coins.
参考
佐藤清一郎「秋田貨幣史」(みしま書房、1972年)によると、明治期の古銭コレクターで当時秋田在住の布川新三郎が明治36年(1903年)に東京古泉協会誌上に発表した「秋田阿仁銅山の天保銭について」と題する論文の中で、以下の内容が記されているという。佐藤によると、これは加護山の元職人から聞き取った話なのでかなり確かな記載だとしている。
名称 | 鋳造期間 | 銅:鉛 |
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銅山至宝 当百、五十文銭 | 文久2〜元治元年 1862〜1864年 | 8:2 |
秋田波銭 (当百銭) | 文久3〜慶応2年 1863〜1866年 | 9:1 |
八卦銭 (秋田鍔銭) | 文久3〜慶応3年 1863〜1867年 | 9:1 |
「大正古銭価格図鑑」(古泉学道人、訂6版、1924年)によれば当時の銅山至宝五十文銭の売買価格は「3円」、百文銭は「2円」なので、やはり大きさよりも希少性が価格を決めていたようだ。100年後の現代では五十文銭は「1万5千円〜」、百文銭は「2万5千円〜」なので(「日本貨幣カタログ2021年版」、日本貨幣商協同組合、2020年)、大きさのほうが価格を支配しているようだ。需要が減ったからだろう。
当時、銅に比べて鉛は需要がなく「だぶついていた」と言われている。鉛の有効活用のために鉛を多めにした銭貨をつくってみたものの、あまり出来栄えがよくないので、銅を多くした波銭をつくった、というようなことが想像されるが、実際どうだったのかは記録がないのでわからない。
追記
銅と鉛が融解状態から固化するときには「偏晶」とよばれる特徴的な結晶化が起きる。下の状態図によれば、摂氏326度から954度の範囲では、固体の純銅と液体の鉛+銅とが共存する。固体の鉛ができはじめるのは温度が326度まで低下してから。また鉛の重量比が36%を超えると、液体状態で銅に富んだ液体と鉛に富んだ液体とが(まるで水と油のように)混じり合わずに分離するような温度領域が存在する。したがってそういう混合物をるつぼで溶かすと、銅の凝固点付近では重たい鉛が分離して底のほうにたまってしまうので、上澄みはつねに鉛36%程度の液体ということになる。それより鉛が少ない場合でも、954度になると液体が2相に分離してしまう。「秋田貨幣史」にも記述があるように、鉛を多くすると均質な合金をつくるのがむずかしくなるようだ。(2021年7月16日)