足尾を訪問 Visit to Ashio
かつて銅山で栄えた足尾の町を旅した。今まで行ったことがなかったのだが、2025年8月8日に「足尾銅山記念館」がオープンする、というニュースを聞いて、行ってみることにした。
東武日光駅前からバスで向かった。足尾は栃木県日光市の一部だが、地勢的には渡良瀬川の上流部に位置していて、わたらせ渓谷鉄道(旧足尾線)で群馬県側からも入ることができる。日光市が運営するこの路線バスの停留所は駅前と言いつつ、旅行者がすぐに発見するのは困難とおもわれる外れのほうにある。バスは小型で普段の乗客数があまり多くないことを暗示した。支払いに交通系ICカードは使えない(paypayはつかえた)。足尾までの道のりは国道122号に沿って約 20 km。かつてはつづら折りの峠道だったが、1978年(昭和53年)に日足(にっそく)トンネルが開通したことで所要時間は格段に短縮されたらしい。出発は午前9時36分だったがバスは数分遅れで到着し、足尾鉱山の製錬所跡地にほど近い赤倉バス停に着いたのは10時15分過ぎだった。
製錬所跡から銅(あかがね)親水公園
足尾の歴史については「足尾銅山の歴史」と題する日光市の記事がよくまとまっているので参照されたい。
ごく簡単にまとめると、江戸初期には足尾は幕府直営の銅山だったが、めぼしい鉱脈を掘り尽くして閉山寸前だった明治初頭、古河市兵衛(ふるかわいちべえ)がこれを買い取るや、直後に鉱脈がたくさんみつかって日本有数の銅山の地位を得るまでに発展し、古河財閥形成の礎となった。それと同時に鉱害が大きな社会問題となった(足尾鉱毒事件)。戦後も稼行したが1973年(昭和48年)に自山での採鉱を終了。他山の銅鉱石の製錬事業はしばらく続けたが1989年(平成元年)にこれも停止した。
赤倉のバス停に立つと、渡良瀬川の対岸にかつて製錬所の一部だった大きな建物が見える。いまは廃屋同然だ。渡良瀬川には古河橋という名のトラス橋がかかっているが、これは国の重要文化財として残されているだけで通行はできない。5分ほどで別のバスに乗り換えて、さらに上流部の銅(あかがね)親水公園に向かった。
足尾の鉱害は激烈をきわめた。銅鉱を製錬する際に発生する亜硫酸ガス(二酸化硫黄)は草木を枯らし、製錬所の周囲はハゲ山と化した。農作物への被害もはなはだしく、渡良瀬川最上流部の松木(まつぎ)村やその隣村は明治30年代に廃村になった。周囲を 1500 m 級の山に囲まれて、空気より重い亜硫酸ガスが滞留したためと考えられる。山は保水能力を失い、大雨のたびに土砂を下流に流出させた。戦後、大掛かりな砂防工事が国や栃木県の手でおこなわれ、松木川・久蔵川・仁田元川の合流地(地元では三川[さんせん]合流と呼ばれている)には砂防ダムがつくられた。銅親水公園はこのダムの堰堤の下に整備されたもので、NPO法人「足尾に緑を育てる会」が運営する「足尾環境学習センター」も建っている。ここでは足尾の歴史や治山・緑化事業の詳細を知ることができる。足尾鉱山の鉱石標本も数点あった。
足尾銅山記念館
徒歩で赤倉バス停まで戻った。道すがら古河の社宅跡地などを見学。11時18分発のバスに乗り、間藤(まとう)地区を通過し、田元(たもと)バス停で降りて、そこからは徒歩で、今回の旅の主たる目的地である「足尾銅山記念館」に向かった。ここは古河のグループ企業が共同で設立した一般社団法人「古河市兵衛記念センター」が運営する資料館で、市兵衛の足跡と足尾銅山の歩みとを紹介している。創業150年を記念して今年(2025年)開館した。
入館するには事前予約が必要である。わたしが訪問したのはオープン翌日の土曜日だったこともあり早い時間帯は予約で埋まっていて、その日たまたま来た人が飛び入りで入れたのは午後3時以降だったようだ。
記念館は、足尾鉱山を買収したときの契約書などの歴史資料、網の目のように張り巡らされた坑道を示す立体模型、足尾で製作され日本各地の鉱山でもつかわれた削岩機などといった、単なるパネル解説ではない実物の展示が充実していたとおもう。また立派なシアタールームが2部屋あり、ぜんぶで5本くらいのビデオが随時上映されている。とくに市兵衛の前半生を描いたドラマ仕立ての解説ビデオはかなりの大作である。
古河掛水倶楽部
古河掛水倶楽部(かけみずくらぶ)はかつて鉱山の迎賓館として建てられた施設で、現在も古河機械金属の福利厚生施設として利用されている。記念館に隣接するがまったく別の施設で、入場料も別途かかる。土日しか公開していない。
この日はタイトなスケジュールをこなす必要があったので、本館はほとんどスルーし、付設されている「鉱石資料館」をおもに見学した。ここには古河が経営した鉱山の鉱石標本が多数展示されている。足尾の石では、黄銅鉱、燐灰石、磁硫鉄鉱、蛍石などの佳品があった。太良鉱山の方鉛鉱の結晶標本も良いものだった。木造の古い建物でほとんど空調が効いておらず、一部の石に経年劣化がみられたのは残念だった。写真撮影不可、とのこと。
足尾駅
その後、わたらせ渓谷鉄道の足尾駅に行って、13時31分発の普通列車で隣の通洞駅に向かった。この鉄道会社は沿線自治体・企業が出資する第三セクターで、1989年にJR足尾線を引き継いだ。歴史的には古河の私設鉄道がはじまりである。
「あしおトロッコ館」はトロッコ以外にも旧国鉄等の車両を複数保有していて、足尾駅の側線で動態保存している。この日はキハ35系気動車の内部を公開していた。他にも貨車が数両とまっていた。なお「あしおトロッコ館」はこれらの車両を修繕するための資金をつのるクラウドファンディングに挑戦中なので、こういうのが好きな方は協力してみたらいかがだろうか(期限は2025年9月15日)。
足尾銅山観光
ここは日光市が運営する観光施設で、トロッコに乗って鉱山内部に入ることができる。わたらせ渓谷鉄道・通洞駅から歩いて7、8分のところにある。トロッコは15分おきに発車する。待合所には足尾の鉱石が何点か陳列されていた。始発点から坑口の前までは急勾配になっていて、専用の牽引車を先頭に下っていく。坑道は通洞坑と呼ばれていて、国の史跡である。通洞とはもともとはヤマの中と外部とをつなぐ幹線の役割を担う水平坑道のことだが、足尾ではこれが固有名詞化して地名にもなっている。市兵衛が鉱山を買収した9年後にあたる明治19年(1886年)に着工し、完成まで10年を要した。
トロッコで入れるのは通洞のほんの入口部分だけだ。実際の坑道は備前楯山の直下まで数 km つづく。トロッコを降りて順路に沿って進むと、人形をつかって往時の採掘作業を再現するような展示がある。地上に出ると江戸中期に当地で寛永通宝を鋳造したことにちなんだ「鋳銭座」なる展示館もある。なお坑道は天井が低いところがあり、また至るところで地下水が滴っていて、注意を要する。
見学路はそのままおみやげ屋や喫茶店が入居する古い建物(レストハウス足尾)に通ずる。喫茶店で軽くなにか食べようとおもったが時間が遅くて入れなかった。鉱物をあつかう店があって、足尾の石も多数おいていたのが意外だった。小粒の黄銅鉱が群生して、その上になにか泥のようなものがこびりついた鉱石片を買った。店のおばちゃんは石を扱うようになってかれこれ40年だそうで、知識豊富だった。足尾は人口が減ってしまって、足尾の石をもっているような人はほとんどいなくなってしまった、と言っていた。この建物は昭和50年代で時が止まったかのような独特の空間だったが、近々とりこわされ、観光施設もリニューアルされるようだ。
所感
その後、通洞駅に戻って、15時17分発の列車で大間々(おおまま)に行き、上毛電鉄に乗り換えて「前橋ウィッチーズ」の聖地巡礼までするという、充実した旅行日程を消化することができた。
江戸、明治から昭和初期まではずっとそうだったとおもうが、世の中を支配するのは為政者と一部の大商人で、一般庶民はただただ搾取される捨て駒の地位に甘んじなければならなかった。中央と地方との関係もそれとおなじで、地方の産物は中央の富として集積する一方、逆向きの矢印はあっても微々たるものだった。わたしは足尾の町をほんの数時間旅しただけだが、それでも思うのは、いったい鉱山会社はこの町になにを残したのか、ということだ。たまたま存在した銅鉱床を利用するだけ利用して、労働者はつかわれるだけつかわれて、農民は土地を奪われ、そして鉱石を掘り尽くして価値のなくなったこの地には荒廃した野山という負の遺産が残され、それを復元するのも庶民の税金。表面上はそのように見える。
今回、古河グループの主要企業が参与して「足尾銅山記念館」を足尾の町に建てた、というニュースは、多少なりともわたしをほっとした気分にさせた。足尾鉱山で得た利益を元手にしたこれらグループ企業が、なにがしかの正の遺産を町に残そうという意思は感じた。「古河市兵衛記念センター」はあくまで創業者たる市兵衛への敬意をあらわす団体、なのだけれども、表立っては言っていないかもしれないが、足尾の町に対する敬意も、いくばくかは感じる。
足尾のような町は全国至るところにある。いまでは町は閑散とし、あるいはまったく消滅し、ときどき廃墟マニアが撮影に訪れる。でもそれだけではないはずだ。明治期の日本の経済を支えた、などと言葉にしてみれば簡単だが、その意味を深く理解し、文明の発展の歴史を学び、そしてわたしたちの未来を考える。そういった場であってほしい。
補足
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銅の乾式製錬をするかぎり亜硫酸ガスによる煙害は不可避である。いまでこそ硫黄分を硫酸等として固定する脱硫技術が確立しているが、1930年代以前はどこもほぼ「垂れ流し」の状態だった。愛媛の別子鉱山では製錬所を瀬戸内海の孤島、四阪島(しさかじま)に移したが、それでも被害はつづいた。茨城の日立鉱山では高さ 150 m の大煙突を建設してようやく煙害の度合いが軽減された。秋田の小坂鉱山でも農作物の被害が甚大で、農民と会社側との衝突もたびたび起こった。
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足尾は周囲を急峻な山々で囲まれていたので、煙害がごく狭い地域に集中的に発生したのが特徴である。山火事が原因である、などという会社側の弁明もあったようだが、旧松木村周辺の荒廃の主たる原因はあきらかに製錬所の排煙である。足尾では鉱石中に硫砒鉄鉱が含まれたことから、排出される砒素による被害も少なからずあったと考えられる。また地理的な特殊性から、渡良瀬川下流の広範な地域で鉱毒被害がおこったことも特徴と言える。