細倉当百 鉛銭 Hosokura-Tohyaku Lead Coin

一辺約 58 mm、厚さ 7 mm、おもさが 195 g もある大型の鉛銭「細倉当百」。幕末のある時期に細倉鉱山で実際につかわれたらしい。
A large square lead coin of 58 mm in width and 195 g in weight.

これはおそらく日本史上もっとも「重い」お金で、仙台藩が文久年間(1861〜1863年)に細倉鉱山(現在の宮城県栗原市鶯沢)の山内で通用させるためにつくったものだ。重さにはばらつきがあり平均 175 g とされるが、上に示したものは 195 g でやや特異的に重い。こんな重いお金は不便極まりないとおもうが、残存数が相当あることからして、短い期間ではあるが実際にある程度流通したものらしい。

一般に江戸時代の大きな鉱山は藩(場合によっては幕府直轄)の厳重な管理下におかれ、外部との交流が制限された。隠れて鉱産物を持ち出したり、外部の者が鉱山内で自由に商売したりするのを防ぎ、鉱山がもたらす利潤を独占するためである。だから鉱山関係者はすべての経済活動を鉱山内で完結せざるをえない傾向にあり、賃金の支払いや生活必需品の購入等は鉱山内でのみ通用する鉱山札の類でやりとりされる場合が多かった。実際細倉鉱山でもそうした紙幣が使用されていたようだが、なぜか幕末のある時期にこのとんでもなく重い鉛銭が発行された。これ一枚で百文の値打ちがあったとされるが、同じ当百文の天保通宝の 10 倍近い重さである。こうした地方限定のお金としては秋田藩でも鍔銭や波銭がつかわれているし、おなじような鉛銭は米沢藩でも発行された。なぜこうした地方貨がこの幕末期に雨後の筍のごとくあらわれたのか、いまだよく理解できないものがある。

This is definitely one of the heaviest coins in the Japanese history, issued by the Sendai clan in Bunkyu era (1861-1863) as a currency limited within the Hosokura lead mine (Uguisuzawa, Kurihara City, Miyagi Prefecture). The weight is 175 g in average. I think such a heavy lead coin was inconvenient, but the number of remaining coins suggests it was really used at the very end of the Edo period. A large metal mine, especially gold and silver mines, in the Edo period were generally isolated from the surrounding countries in order to prevent theft and information leakage. Therefore, miners occasionally used currency that was valid only within the mining town. Hosokura-Tohyaku is considered to be such a local currency, and similar examples were seen in Akita (ex. Tsubasen and Namisen) and Yonezawa (similar lead coin) at almost the same time.

裏面の文字は「秀」で、これは平安期にこの地を治めていた藤原秀衡の花押とされる。左下と右側とに大小の「○」の極印もみられる。質感からしてほぼ純粋な鉛製とおもわれる。

補足

  • すでに紹介した細倉の鉛・亜鉛鉱石標本(繊維亜鉛鉱)

  • 細倉鉱山の歴史や鉛銭については以下にくわしい:

  • 細倉鉱山の名は16世紀末頃から文献にあらわれ、当初は銀山、江戸中期以降は鉛山として大々的に開発された。鉛は鉄砲の玉や屋根瓦などの用途のほかに、銀鉱石や粗銅から銀をとりだす「灰吹法」や「南蛮絞り」のための需要が大きく、おもに大阪方面へ移出された。細倉の鉱床には亜鉛も相当程度含まれるが、江戸時代は利用されていなかったようだ。明治以降も開発は継続され、昭和9年(1934年)以降は三菱が鉱業権を得て、神岡とならぶ鉛・亜鉛鉱山に発展した。

  • 佐藤によると、細倉当百には「文二」や「文三」の文字や「華」のデザインの刻印が打たれているものが知られている。「文二」は文久二年の意味だと思われるが、定かではない。また佐藤の著書には細倉鉱業所が分析した結果が載っていて、それによると成分はほとんど鉛であって、ごくわずかに(0.1% 以下)銀、アンチモン、銅などが含まれる。

  • 「丁銀(ちょうぎん)」には 200 g を超える大型のものがある。ただこれは秤量貨幣であり、計数貨幣としては細倉当百ほど重いものは日本では知られていないんではないかとおもう。

  • 正直に言うと、冒頭に示した鉛銭が本当に文久年間に仙台藩がつくったものかどうか自信がない。清水恒吉「地方貨幣 分朱銀判 価格図譜」(1996年)に掲載の拓本や、銀座コイン主催の第87回入札誌「銀座」の出品物などと比較するに、「初鋳」とされるかなりレアな代物ではないかと推測するが、なにしろ「本物」を見たことがないのでなんとも言えない。鉛のモース硬度は 1.5 で非常にやわらかく、キズがつきやすい。この鉛貨に関して言えば、鋳造から150年以上経っている割には表面がきれいなので、もしかしたら実際に貨幣として流通しておらず、ある種の記念品としてつくられたものかもしれないし、後代の模造品かもしれない。

「文二」のあたりはややへこんでいて、なにか茶色いサビ(?)のようなものが出ている。