古い土人形につかわれている胡粉の検出 Detection of Gofun Whiting from Old Clay Dolls
日本の土人形は、型どりによって成形した粘土像を素焼きした後、白い塗料を全面下塗りし、それから各部分を彩色する、という工程でつくられた。下塗り(地塗り)には「胡粉」(ごふん)という白色顔料をつかうのが一般的で、これは御所人形や木目込(きめこみ)人形など伝統的な日本人形の仕上げ方とおなじである。
秋田の中山人形は、明治・大正期には宮城県鬼首(おにこうべ)産の白土(はくど)を下塗りにつかっており、胡粉の使用は昭和初期になってからだったという(秋田県文化財調査報告書 第202集、秋田県教育委員会、1991年 リンク)。したがって、古い中山人形を手にしたときに、胡粉がつかわれているかどうかを知ることができれば、それが明治・大正期のものか、昭和初期頃のものかを鑑定することができて便利であろう。また全国の土人形産地における胡粉使用の有無がわかれば、出自不明の古人形の制作地や年代を推定したり、あるいは土人形づくりの技術の伝播経路をあきらかにするのにも役立つかもしれない。
胡粉は貝殻を粉砕したものなので、主成分は炭酸カルシウムであり、塩酸をかけると二酸化炭素を発生して溶解する。鬼首の白土は温泉による変質作用で生じた粘土鉱物やシリカが主成分なので(7万5千分の1地質図幅「鬼首」説明書、地質調査所、1958年 リンク)、塩酸とは反応しない。したがって、古人形を多少傷つけることにはなってしまうが、下塗り部分を削りとって塩酸をかけてみて、発泡しながら溶けるかどうかを見きわめれば、その人形に胡粉がつかわれているかどうか判別することができよう。これは、岩石のサンプル中に方解石(これも炭酸カルシウム)が含まれているかどうかをしらべるのに塩酸を垂らしてみる、という古式ゆかしき鉱物鑑定術と同じである。
以下、その実験の記録。
用意したもの
- 塩酸。三谷産業の「Cimacil 塩酸 8% 500 g」を通販で 入手(送料込みで2300円)。ちなみに塩酸は塩化水素濃度 10% 以下ならばだれでもふつうに購入できる。
- インジェクター(先が尖っていない注射器みたいなもの)。ミネシマの「インジェクター・3pcs」でプラモデル製作などで接着剤を塗布するためのもの。3個も要らなかったが家電量販店で 400 円ほどで売ってたので購入。
- 試料を入れるための黒色のプラスチック容器。100円ショップで6個入りのものを購入。
- 塩酸をとりわけるための容器。別になんでもよかったのだが、手頃な計量カップが100円ショップで売ってたのでそれを入手。
- カッター。
- 実体顕微鏡。鉱物観察用に持っていたもの。
やり方
- 古人形の下塗りの部分をカッターで極微量こそげとり、黒色容器内に入れる。
- 顕微鏡下にて、こそげとった試料にインジェクタで塩酸を垂らす。発泡して溶けるかどうかを見定める。
塩酸に触れてシュワシュワと発泡したら胡粉と判断する。溶けずに固形分が残留する場合は白土である。溶けはするが発泡しない場合があり、これも白土の一種と判断した。一般に顔料としての白土は、シリカ質のものと粘土質のものとがある。後者は吸湿性があり、細粒の場合ドロドロに溶ける(懸濁する)。
胡粉と白土とが混ざっている可能性があるが、ここでは塩酸に「発泡」して溶けることをもって「胡粉」と判断する。
試料の大きさに対して、視野角にしてちょっとだけ大きいくらいの塩酸の水滴を触れさせると、シュワシュワ溶けるようすがよく観察できるようにおもう。
結果と解釈
1. 中山人形
秋田の中山人形(とおもわれるもの)をしらべた結果を以下に示す。各人形の詳細と中山人形の歴史等についてはこちらの記事を参照のこと。
| 番号 | タイトル | 塩酸との反応 | 推定される塗料 |
|---|---|---|---|
| #1 | 子連れの少女 | - | 白土 |
| #2 | 子を抱いた女 | - | 白土 |
| #3 | 角力とり | - | ネオカラー |
| #4 | 子を抱いた女 | - | ネオカラー |
| #7 | 弁財天 | - | 白土 |
| #8 | 熊金 | - | 白土 |
| #9 | 鉞兎 | ⭐️ | 胡粉 |
塩酸と反応して発泡・溶解したのは #9 の「鉞兎(まさかりうさぎ)」のみだった。したがって文献の記述が正しいとすれば、
- #9「鉞兎」は胡粉をつかっているので昭和初期
- #1「子連れの少女」、#2「子を抱いた女」、#7「弁財天」、#8「熊金」は白土をつかっているので明治・大正期
の作であると推定できる。なお #3、#4 は背面に「秋田中山」の刻印があり、昭和中期頃の比較的新しい時代のものである。これらからは胡粉が検出されなかったので、文献が示している「ネオカラー」なる塗料をつかっていると推定できる。
#9「鉞兎」は底の部分が素焼きのままで、白色塗料が塗られていない、という他とは異なる特徴があり、これだけ制作年代が違うことと調和的である。
2. 八橋人形
古い中山人形は、おなじ秋田県の八橋人形とつくりがよく似ている。そこで手元にある八橋人形から、明治から昭和初期頃の作とおもわれるもの(たとえばこの記事の人形)を17点ほどピックアップして同様にしらべた。その結果、すべて塩酸と反応したので、この時代の八橋では下塗りに胡粉をつかっていた、と推測できる。もし明治期の古人形で八橋か中山かわからない場合は、下地に胡粉をつかっているかどうかで産地を判定できるかもしれない。
3. 相良人形
米沢の相良人形の初代厚忠から三代厚正は「人形拵 秘事控言」なる人形づくりのレシピを書き残している。「相良家と相良人形」(塩野徳五郎 他 編著、伏偶舎、1974年 リンク)に原文の写真と書き下し文が掲載されている。これによると、厚正の時代(江戸中〜後期)には「下地」を塗るのに「白土」をつかっており、たとえば
一 弐拾目 白土 能々ねる
一 六匁五分 水にかわ入ル
一 弐拾目 湯
という分量が示されている(目と匁はおなじ意味で 3.75 g に相当)。また別の箇所には「人形ノ下白土引」にもちいる塗料の材料として、
一 百目 白土
一 六枚 いせのり 小判にて
を提示しており、定着剤として「いせのり」(ふのりのこと)をつかうやり方もあったことがわかる。さらに時代を経ると「金沢上土」や「産ヶ沢土」を加えたり、「唐の土」(鉛白のこと)をつかったりするレシピも出てくる。
いっぽう「上 面粉」のつくり方も記されていて、
一 弐拾目 大白 能々ねる
一 五分 上々ゴフン
一 三匁五分 水にかわ入ル
一 拾七匁 湯
とある。塩野らの解釈では「面粉」とは「人形の表面にぬる上等の胡粉」とのこと。「大白」が何を意味するのかは不明。地塗りに胡粉をつかうやり方は他の箇所でも示されている。時代を経るごとに胡粉塗りの記述が多くなるようにおもわれる。
相良家で実際にこのレシピどおりに人形をつくったかどうかは定かでないが、すくなくとも江戸期の相良人形のいくつかは、下地に白土をつかっていると予想できる。
そこで、江戸期から明治前期につくられたと考えられる相良人形(もしくは一部愛好家が寺沢人形と言っているものに該当するもの)16点についてしらべてみたところ、塩酸で発泡したのは2点だけだった。その2点の画像を以下に示す。
以上の実験結果から、江戸期の相良人形はおおむね下地に白土を塗っていると考えていいとおもう。また「犬乗り童子」の例から類推すると、幕末から明治期になると胡粉をつかうようになったかもしれない。
4. 堤人形
古い堤人形は所持数が少ないのでほとんど何も言えないが、江戸〜明治前期とおもわれる人形4点をしらべたところ(たとえばこれやこれ)、すべて塩酸と反応したので、すくなくともこれらには胡粉がつかわれていることがわかった。
5. 花巻人形
以前紹介した花巻人形(こちらの記事)を中心に手持ちの14点をしらべたところ、意外なことに、塩酸であきらかな発泡を示すものは皆無だった。
熊谷章一・吉田義昭「花巻人形」(岩手の民俗民芸双書2、郷土文化研究会、1975年)によると、花巻人形は「下地として膠で溶いた胡粉を三回塗布」したというが、この胡粉は昭和30年当時の記録では「鬼首胡粉」という名称になっていて、これは宮城県鬼首産の白土にほかならない。昔の人は、白色顔料の総称として「胡粉」という語をつかっていた場合があるので、文献を読む際には注意が必要である。
まとめ
サンプル数がすくないので断定こそできないが、今回の実験から推測できることを産地別にまとめると以下のようになる。
| 産地 | 推測される下地の塗料 |
|---|---|
| 堤人形 | 胡粉(江戸〜明治前期) |
| 相良人形 | 白土(江戸期)、胡粉(幕末〜明治期) |
| 花巻人形 | 白土(江戸〜昭和前期) |
| 八橋人形 | 胡粉(明治〜昭和初期) |
| 中山人形 | 白土(明治・大正期)、胡粉(昭和初期) |
胡粉は人形の下地材として最適だが、地方の業者にしてみると、とくに江戸期には手に入れづらい顔料だったのかもしれない。花巻では時代を問わず一貫して白土をつかった節があるが、これは近くに白土の産地があり、安価に入手できたことが影響したのではなかろうか。
古い中山人形は花巻や八橋の影響を受けている、と言われているが(武井武雄「日本郷土玩具 東の部」地平社書房、1930年 リンク)、地塗りに関しては八橋ではなく、花巻のやり方に習った可能性がある。なお昭和初期以降は堤人形の技術が導入されていて、これは下地材料の変化にもあらわれている。
相良家の伝書には白土によるやり方と胡粉をもちいたやり方とが併記されているが、今回の実験によると、実際のところはもっぱら白土をつかっていたことが示唆される。堤ではおもに胡粉を塗っていたのと対照的である。胡粉の使用は、米沢藩が信条とした「質素倹約」にはふさわしくなかったのだろうか。
今回の結果は暫定的なものだが、今後サンプル数を増やして、いろいろな産地の、各時代ごとの下地塗りの特徴をあきらかにできればとおもう。
補足
大事な古人形の損壊を最小限にするため、こそげとる試料はなるべく少量にしたい。すでに破損部があればそこから、そうでなければなるべく目立たないところから、必要な量だけ採取するよう留意した。また容器を黒色にして試料を見えやすくし、微量の試料がよく観察できるように顕微鏡下で実験することにした。顕微鏡がなくても、左手に虫眼鏡、右手で塩酸滴下、などのスタイルで十分だとおもう。
塩酸は危険な薬品なので、瓶に記載の注意事項を遵守する必要がある。インジェクタの先端部は金属なので、こまめに洗わないと侵されてしまう。耐酸性のある他の道具をつかうべきだったかもしれない。塩酸は 4〜5% 程度に薄めてつかってもよいとおもう。
人形の「プロ」は、そもそも「見た目」だけで胡粉かどうかを判断できるのだろうか?一口に胡粉、白土といっても、産地や精製度、粒度の違いで質感は変わるだろうし、それを素焼きの上に定着させるために膠(にかわ)をつかうか、ふのりをつかうかでも見た目が変わるかもしれない。
顔料として鉛白(炭酸鉛)をつかっている可能性もある。また膠をつかっているか、その他の定着剤をつかっているかの鑑定も今後の課題である。膠についてはタンパク質の検出反応が応用できるかもしれない。蛍光X線分析装置を自由につかえれば、他の顔料も含めて一発だろうが、これも今後の課題である。


