農民美術 The Peasant Art

「農民美術」とは、画家の山本鼎(やまもとかなえ:明治15〜昭和21年/1882〜1946年)が提唱した一種の芸術運動およびそこで生まれた作品群のことで、大正末から昭和初期にかけて全国的に流行した。その全容については、

  • 「はじめまして農民美術」、宮村真一・小笠原正 監修、グラフィック社、2022年 (リンク

という本がさいきん出版されていて、そこにくわしく書かれている。この記事の内容ももっぱらこの本によっている。

こっぱ人形

1. 立像 2種

左: 浅井小魚 作、高さ 9.1 cm
右: 正峯 作、高さ 7.8 cm

どちらも1個の木片を彫ってつくった人形である。「農民美術」の世界ではこうした木彫の小品のことを木片(こっぱ)人形と呼んでいる。

左は秋田の鍛冶職人にして郷土史研究家・俳人でもあった浅井小魚(あさいしょうぎょ:明治8〜昭和22年/1875〜1947年)が昭和初期につくったもの。ほっかむりをして菰(こも)を背に当てた女性は、表情がおだやかで、いかにも秋田の農村の光景をおもわせる。「農民美術」が全国的広がりをみせていた昭和3年(1928年)、地元鹿角郡大湯町にて開かれた木彫の講習会に参加した小魚は、その後10年間ほど、こうした人形を制作し、土産品などとして販売した。上の農婦像は、講習会の講師として招かれた彫刻家・木村五郎が最初に提案したモチーフのひとつで、他の作者の同題作品も存在する(「大湯木彫人形」鹿角市歴史民俗資料館、2021年 リンク)。小魚の創作活動は「農民美術」の当初の理想どおりには必ずしも進まなかったようだが、この小作品からは、日本が戦争に突き進む直前の、ひとときの思想・文化の高まりが伝わってくるような気がする。

右は茨城県の霞ヶ浦周辺地域(旧新治郡、行方、鹿嶋、鉾田など)で昭和初期から昭和40年頃までつくられたとされるポプラ人形。当地に自生するポプラの木をつかった土産品として当時はそれなりに知られていたようだ。作者は正峯。いろいろ調べたが、正峯がどのような人だったのかはわからなかった。小品ながら実にほがらかな表情を彫り出していて、技術的に相当高度な領域に達しているのではないかと、美術のしろうとのわたしはおもう。

彫刻だけでなく、きれいに彩色までしていて、これ1個つくるのに相当の手間がかかっている。底部に作者の銘がある。

2. スキー人形

高さ 6.2 cm

雪ぐつを履いて、わらぼっちをかぶった子どもがスキーをしている。作者等の詳細は不明だが、たいへんできがよく、作者のユーモアのセンスが光っている。「はじめまして農民美術」によるとこうしたスキー人形は各地で相当数つくられた。昭和初期頃はスキーはまだ新しいレジャーで、人々の注目を引く題材だっただろう。

うしろ姿。右のストックの先の部分が欠損している。作風から、新潟県上越市で「越路人形」をつくっていた江島作太郎(大正3〜平成5年/1914〜1993年)の戦後の作品ではないかと想像しているが、確証はない。

3. 秋田犬

耳の先までの高さ 7.4 cm、鼻先から尻までの幅 8.8 cm。

秋田の人々の生活や風物を描いた版画家、勝平得之(かつひらとくし:明治37〜昭和46年/1904〜1971年)が若い頃につくった木彫人形。忠犬ハチ公の銅像が渋谷駅前に建てられたのが昭和9年(1934年)のことだから、ちょうどそのあたりの作品である。話題性もあいまってよく売れたのかもしれない。昭和3年(1928年)、24才の得之は、先述した大湯での木彫講習会に参加し、木村五郎から彫刻の手ほどきをうけた。その後、版画家として一定の評価を獲得するまでの10年ほどの期間、「秋田風俗人形」と銘打ってこうした作品を制作・販売し、生活の一助にしたという。得之にとって「農民美術」との出会いは、その後の版画家人生の原点になった。

生命感あふれる造形だ。黒塗りも効果的だとおもう。腹側に作者のサインがある。

農民美術と土人形

「はじめまして農民美術」はとてもよい本なので、作品の実例やそれを生み出した背景等について知りたい方はご一読をおすすめする。

農村振興の妙案として国や県などの後押しもあった「農民美術」だが、戦争の激化とともに徐々に下火になった。おもうに「農民」の趣味と実益を兼ねた美術工芸品の創作、という当初の目標はあまりに高かった。型をつかって量産可能な土人形などとは違って、木彫人形はすべて1から生み出す必要があり、さらに彩色までするとなると、いかんせん「コスパ」が悪かったとおもう。そもそも売れるためには高い技術とインパクトのある意匠が必要で、それらが噛み合って成功した例は限られた。しかし昭和初頭、全国各地に「農民美術生産組合」が多数結成され、独特な風趣に富む「こっぱ人形」が競うように創出され、そして一時的にせよ、多くの人に受容されたことは、見逃すことのできない事実であり、当時の日本人の思想や美意識を知るうえで、大きな示唆を与える。

「農民美術」の理念は、間接的にせよ、さまざまな創作分野にも波及したと考えられる。勝平得之の版画などはその最たるものだろう。

秋田県平鹿町(現在は横手市)の中山人形の工房の家に生まれた樋渡義一(明治39~昭和63年/1906〜1987年)は、昭和3年(1928年)以降、それまでの伝統的な土人形とはかなり作風の異なる「横手人形」を多数創作した(詳細はこちらの記事)。彼の作品のいくつかは、いかにも「農民美術」をおもわせる。横手人形の創出と秋田県での「農民美術」の盛り上がりとがほぼ同時期のできごとだったことは偶然ではなかろう。

下の画像は、昭和初期頃、秋田市の八橋地区でつくられたと推定している土人形である。このような作風の土人形は、すくなくとも明治期の八橋ではつくられていない。また昭和中期以降にもみられないので、昭和はじめ頃のごく短い期間に創作されたものと推測する(八橋人形についてはこちらの記事を参照)。横手人形が人気を呼んだことに刺激を受けたのかもしれない。昭和初期頃、戦争の泥沼に突き進む直前の日本には、都会の人間が田舎の風俗をなつかしむ、みたいな牧歌的風潮があったのではないかとおもう。

ほっかむりをした農夫が種まきをしている。高さは 14.6 cm。八橋としてはやや大型の部類に属する。こうした写実性は明治期の八橋人形にはほとんどみられない。節句人形や子どもの玩具としてではなく、むしろ都会の人に向けた観賞用の人形としてつくられたのではなかろうか。