西和賀町を訪問 Visit to Nishi-Waga Town

碧祥寺博物館の白岩焼 Shiraiwa Earthenware in Hekishoji Museum

岩手県西和賀町に碧祥寺(へきしょうじ)というお寺が運営している博物館があって、古い白岩焼の器がたくさん展示されている、といううわさを聞いたので行ってみた。

I went to the Hekishoji museum, Nishi-Waga, Iwate, Japan, knowing that it had many old earthenwares made in Akita.

碧祥寺の本堂。まだ雪が残り、雪囲いもそのままだった。 The museum is managed by the Hekishoji temple.

博物館は西和賀町の北部、旧沢内村太田地区にある。わたしはJR北上線ほっとゆだ駅前の観光施設で自転車を借りて向かった。15 km ほどの道のりだが、そんなに起伏のない舗装道路で気持ちのよいサイクリングだった。町が運営しているバス路線も利用できる(Google Map で経路検索できる)。駅前にはタクシーも待機している。また盛岡市内から直通のバスの便もあるようだ(くわしくは西和賀町の町民バスのページを参照)。

5月初旬だったにもかかわらず、お寺の前には寄せられた雪が残っていた。このあたりは積雪が優に 2 m を超える日本有数の豪雪地帯であり、実際博物館は1月〜3月の多雪期は休業する(ちなみに毎週火曜も休館日)。展示室は何棟かにわかれているが、そのうちの一つ、雪国生活用具館はその日たまたま電気工事があって見学できなかった。

I hired a bicycle at "Hot" Yuda Station of the JR Kitakami line to go to the Hekishoji museum, located 15 km north of the station. A public bus and taxi were available, and there is also a bus line from Morioka, the capital of Iwate prefecture. I saw a pile of snow in front of the temple, though it was early May. The snows of the Nishi-Waga district are so heavy that the depth exceeds 2 m. That is why the museum is closed from January to March.

※西和賀町(にしわがまち)は2005年に沢内村(さわうちむら)と湯田町(ゆだまち)とが合併してできた。

碧祥寺博物館のパンフレット。

第1・第2資料館の奥のほうに江戸後期から明治期に秋田でつくられたやきもの80点ほどが展示されていた。多くは白岩焼(仙北市)で、楢岡焼や栗沢焼(大仙市)の器もあった。徳利やかめが主で、とくに当時どぶろくを貯蔵したとされる容量が3升前後の「どぶろくすず」が多数展示されていたのが印象的だった。このような山間の村では酒はもっぱら自家製だったのだろう。

My interest was earthenwares made in 19th-century Akita. They were mostly Shiraiwa, and some were Naraoka and Kurisawa. It was impressive that the collection included many doburoku bottles, by which people drunk homemade unrefined sake.

※白岩焼や他の秋田の古いやきものについては以前の記事を参照のこと。

※どぶろくとは米を発酵させたにごり酒のこと。徳利のことをかつて「すず」と称した。どぶろく文化や白岩焼のどぶろくすずについてはこちらの記事を参照のこと。

碧祥寺博物館の古い秋田のやきものの展示。第1・第2資料館の展示については写真撮影可能とのことだった(他の展示室で写真撮影可能かどうかは博物館の方にお聞きください)。 The 19th-century Akita earthenwares.
上の器はすべて白岩焼と考えていいだろう。写真左側の下ぶくれの大きな器がどぶろくすずである。 The doburoku bottles in the left are Shiraiwa.
右上に見えるどぶろくすずや中央左のかめなどは楢岡焼だろう。 Some are Naraoka wares.

碧祥寺の白岩焼コレクションは西和賀地域でかつて実際に使われたものだという。江戸後期から明治期には岩手県の花巻に鍛冶町焼の窯元があったし、他にもやきものの生産地はあったはずだが、いったいなぜ岩手県の西和賀町に「秋田」のやきものが多数残されているのだろうか?

The reason why many earthenwares were imported from Akita to a village of Iwate prefecture could be explained by the location of Nishi-Waga.

西和賀町周辺の地勢。地理院地図(国土地理院)にて赤色立体地図に記号と文字を付して作成した。白っぽいところが平坦地、赤黒いところが急峻な山々をあらわす。

これには西和賀町の立地条件が関係していると考えられる。上の地図を見ると、北上盆地と横手盆地とのあいだに横たわる奥羽山脈の真っただ中に、南北に細長いごく小規模な盆地が存在していていることがわかる(点線で囲まれた地域)。この険しい山々で囲まれた「奇跡のような山ひだ」こそが、西和賀町の人々やその祖先が古来暮らしてきた土地である。岩手県が提供する「いわて遺跡地図」を見ると、この細長い平坦地に沿って旧石器時代や縄文時代の遺跡が点々と分布している。

単純に碧祥寺周辺からの距離だけでいうと、盛岡・北上までよりも、秋田県の横手や仙北地方までのほうが近い。さらに北上方面に抜けるためにはかなり急峻な峠を越える必要があるが、横手方面への道は比較的険しくない(上の地図でいうと「色が薄い」)。藩政時代は国境を越える往来には制限が設けられていたかもしれないが、少なくとも明治期は、人と物資の交流はむしろ秋田側とのほうが盛んだったことが示唆される。

要するに、白岩焼など江戸後期〜明治期の秋田のやきものが西和賀地域に多く残されていたとしてもさして不思議ではない。西和賀の人々がどのくらい酒好きだったか定かでないが、白岩焼のどぶろくすずは他産地には見られない独特な形状で、使い勝手もよかっただろうから、とくに人気商品だったのかもしれない。

As the above map shows, people in Nishi-waga lived in a small-scale narrow basin surrounded by deep Ou Mountains. The Nishi-waga district was closer to Akita than to Kitakami and Hanamaki, Iwate prefecture, and the way to Akita was rather easy for ancient people to walk along. Exchange of goods would be more active with Akita. It might be true that Shiraiwa doburoku bottles were unique and more useful than earthenwares from other potteries.

碧祥寺博物館について Hekishoji Museum

第1・第2資料館には、やきものの他にも多数の品々が陳列されていた。絵馬や馬具が多数飾られた部屋があって見ごたえがあった。花巻人形や押し絵の展示も興味深かった。

碧祥寺博物館は、1969年(昭和44年)に、お寺の住職で沢内村の教育長でもあった太田祖電が設立した。元高校教諭でもあった祖電は、村内外に残されていた歴史・民俗資料の学術的な意義を早くから認識し、精力的に収集した。とくにマタギの狩猟用具積雪期の生活用具はのちに国の重要有形民俗文化財に指定され、独立した展示室が設けられている(後者が見学できなかったのは残念である)。

収集の範囲は隣県の秋田や青森、山形にもおよんだ。当初は村の事業として企図した資料収集だったが、「縄張り」を侵して他村の文化財にまで手を伸ばすのはなにかと角が立ったようで、あくまで宗教法人である碧祥寺のコレクションとした。博物館設立後は、村民や関係者などからの寄贈品も多数あったと聞いた。

※資料収集の経緯については太田祖電・高橋喜平「マタギ狩猟用具」(日本出版センター、1978年)を参照のこと。

前述のとおり西和賀町は奥羽山脈の核心部に奇跡的に開けた盆地に位置して、地理的に隔絶されていたため、独特な文化・習俗が醸成された。1960年代、すでに失われつつあった山の生活を記録しようと奔走した祖電の行動力には敬服の念を禁じ得ない。

It was also interesting for me to see a room of old horse bells and ornaments, and panels of horse's picture. The Hanamaki clay dolls and old cloth dolls were also interesting. The Hekishoji museum was established in 1969 by Ohta Soden, who was a temple's priest, the chair of a local board of education, and also once a high-school teacher. He collected various folk materials that were about to be diminishing. Some of the collection such as Matagi (hunter) folkloristic heritage and tools against heavily snowy season are registered as important cultural property of Japan.

西和賀町歴史民俗資料館 Nishi-waga History and Folklore Museum

碧祥寺の近くにある食堂でそばを食べて、来た道を戻った。途中、湯本温泉街の菓子店で地元産のわらび粉100%のわらび餅をおみやげに買った。

JRほっとゆだ駅からほど近いところに町立の歴史民俗資料館があるので、帰りの列車まであまり時間がなかったが、見学に行った。この施設は、町が保有する考古・歴史資料に加えて、かつてこの地域にあった金属鉱山の鉱石資料を多数収蔵している点が特筆に値する。「撮影不可」とのことなので写真でお伝えできないのが残念だが、和賀仙人鉱山のスカルン鉱床、鷲合森などの鉱脈型の鉱床、土畑鉱山などの黒鉱鉱床の鉱石標本群、さらには他では見られないようなマイナーな産地のサンプルなど、展示はたいへん充実している。

I returned to station, having a lunch at a soba noodle restaurant near the museum and buying warabi mochi (bracken pastry) at Yumoto. Before getting on a train, I went to another museum managed by Nishi-Waga Town. It was a unique museum in displaying ore specimens of a number of local metal mines such as Waga Sennin (skarn type), Washiaimori (hydrothermal vein type), Tsuchihata (kuroko type), and other minor ore fields.

※西和賀地域の鉱山については以前の記事を参照のこと。

西和賀町歴史民俗資料館のパンフレット。ここも冬季間は休業する。くわしくは町のウェブページを参照のこと。

おわりに

わずか4時間ほどの滞在時間だったが、貴重な文化財に触れ、また清涼な山の空気を吸い、わたしとしてはたいへん満足した。温泉宿などに泊まって、ゆっくり町内の史跡や景勝地などをめぐれば、はるか太古の昔からこのような山間地に暮らしてきた先達の人生というものに対して、なにがしかの共感を覚える旅になるだろう。

西和賀地域では古くから平坦地を利用した稲作がおこなわれてきたが、標高 300 m 前後の高原で冷夏の年も多く、たびたび凶作に見舞われた。それでもはるか縄文の時代から人々が暮らし続けてこれたのは、ひとえに豊かな山の恵みのおかげだった。歴史民俗資料館の図録に「凶作と湯田町」と題するコラムがあったので、最後にこれを引用する:

「沢内年代記」には凶作や飢饉の記事が多い。天保四年の項に「雨降リ続ク 風寒ク穂出ズ青立チトナル・・・餓死スル者数ヲ知ラズ」とあり、これが凶作の年の典型的な記録例である。

(中略)しかし、山間高地という地理的条件は、悪条件ばかりではなかった。豊富なトチ、シダミ(楢の実)、根花(ワラビの根)などは、凶作の時だけではなく日常食としても用いられていた。

(中略)働きさえすれば、食っていける。強靭な体力、精神力、労働意欲が湯田に生きる人間には常に求められていた。

あのわらび餅も単なるわらび餅ではなかったのである。

Although it was a four-hour short visit, I was very satisfied with clean mountain atmosphere and valuable historical heritages. People in Nishi-Waga have been suffered from poor crops of rice many times because of lower temperature than plain fields, but were blessed with plenty of foods from mountains such as tochi and shidami (wild nuts) and starch made from warabi (bracken). The warabi mochi that I bought was not a mere sweet pastry.

※「沢内年代記」は江戸〜明治期にかけて西和賀地域でおこったできごとを編年体で記した歴史書。原文は「沢内年代記 2版」(太田祖電 編、沢内村郷土史シリーズ 第6集、沢内村教育委員会、1982年)で読むことができる。

西和賀町の地ビール。

補足

  • 西和賀町観光協会が発行している観光ガイドブック

  • 北上盆地の西縁および横手盆地の東縁には大規模な断層帯が南北に走っていて、発生頻度こそ少ないが、たびたび大地震を起こしている。後者は最近では1896年(明治29年)に活動し、200名以上の死者を出した(陸羽地震)。西和賀町から雫石にかけても別の断層帯があって、西和賀の南北に細長い盆地地形はこの断層が活動した結果生じたものである。正確には予測できないが、ふつうに考えて、今後すくなくとも数千年から1万年程度のあいだにこれらの断層帯のうちのどれかは再び活動し、マグニチュード7クラスの大地震を起こすことはまちがいないだろう。大地震は災害を引き起こすいっぽう、数百万年という長い時間スケールで見ると、北上、横手、西和賀のような構造盆地を形成し、人間の豊かな生活の場を与えるのである。

  • 昭和30年代(1955年〜)、旧沢内村の住民は豪雪、貧困、多病の三重苦にあえいでいたが、村長の深沢晟雄(ふかさわまさお)は、当時教育長だった太田祖電らとともに、道路の除雪や乳児・老人の医療費無料化など、村民の健康と福祉を増進させる政策を次々に実行し、地域密着型行政のモデルケースとして沢内村を全国に知らしめた。太田はのちに村長となり、深沢村政を継承・発展させた。くわしくは「沢内村奮戦記 住民の生命を守る村」(太田祖電・増田進・田中トシ・上坪陽、あけび書房、1983年)など参照のこと。

  • 北上と横手とを結ぶ北上線が開通する2年前の1922年(大正11年)には、すでに陸中川尻(いまのほっとゆだ)・横手間が部分開業しており、これも秋田側のほうが地形的に鉄道敷設が容易だったことを示している。実際、北上側の仙人峠を貫くトンネル工事がかなりの難工事だったようである。北上線の沿革については Wikipedia の記事を参照のこと。

  • 碧祥寺博物館を設立した太田祖電の父は秋田出身とのことだが(たとえば「沢内村奮戦記」57ページ)、これは特殊な事例ではない。物資の流通のみならず、人的交流の面でも、西和賀と秋田とのあいだには昔から深い結びつきがあった。