白岩焼の大すず Big Bottle of Shiraiwa Earthenware

Height: 37.8 cm / Body width: 21.5 cm / Top width: 6.8 cm

3升(5.4リットル)入りの大型のすずで、類品と比較するに、幕末から明治期に秋田県仙北市(旧角館町)の白岩地区で焼かれた器とみていいとおもう(秋田あたりでは液体をいれる容器で口が細いものをスズ、寸胴形のものをカメという)。なんといっても首から肩の部分がかさね餅のように段々になっているのが特徴的だ。白もしくは青白く発色するナマコ釉がたっぷりとかけられており、全体にあたたかみを感じさせる、よいデザインだとおもう。尻の部分に三本の筋が刻まれていて、ちょうどそこで釉薬の垂れがとまっている。高台のつくりは大物にしては繊細で、白岩の作風を感じる。

かつて秋田あたりの農家では自家製のどぶろく(コメを発酵させた濁酒)をこういった大型の容器に貯蔵したらしい。どぶろくの製法や飲み方がよくわからないので確かなことは言えないが、発酵はもっと大容量のかめや樽などでおこない、それを荒ごししたものをこうしたすずにいれておいて、随時お椀とか湯呑みなどで飲んだものとおもわれる。ガラス製の一升びんが全国的に普及するのは1920年代以降と考えられ、それまでは陶製のびんの需要は大きかったにちがいない。

This large bottle has 5.4 liter capacity and was probably baked in Shiraiwa District, Senboku, Akita Prefecture, Japan, in the 19th century. The white or bluish white color and the design like a multi-layer cake give a good impression. Three lines engraved at the lower part seem to have stopped the glaze flowing down. The sharp bottom rim shows a characteristic of Shiraiwa earthenware.

It is said that farmers in Akita used to keep home-brewed sake in this kind of big bottles. I am not sure how to brew, but they might use another lager vessel for fermentation, and store the alcohol in a bottle after a simple filtration. Large ceramic bottles were popular before 1920s when glass sake bottles became common.

渡辺為吉「白岩瀬戸山」に記載されている「角すず」に相当する。明治期にはほかに2升や5升サイズの角すずが出回っていた。1升以下の中型〜小型のものは「丸すず」である(たとえばこれとかこれ)。
高台にヒビがはいっているが水漏れはしない。焼成時の窯傷だろう。

白岩焼は幕末から明治初期に生産のピークがあったが、しだいに衰退して20世紀を迎えることなく廃業した。その理由として、安い磁器製品の普及、1896年に起こった陸羽大地震(六郷地震)による被災、あるいは経営手腕・戦略の乏しさ、などが指摘されているが、明治政府による「どぶろく禁止令」も少なからぬ影響を与えたと言われている。そもそも庶民が自前でどぶろくを醸すことは江戸時代でも禁止されたことはない。とくに秋田は米農家が多く、冬は家の中にこもりがちだったので、飲酒はほとんど唯一といっていいくらいの日々の楽しみであり、どぶろく生産は盛んだった。白岩焼のかめやすずは酒の醸造・貯蔵の容器として重宝されたのである。

驚くべきことに、明治中頃の日本の税収の約1/3は酒税だった。当時はいまでいう所得税ではなく、土地所有に対する税金(地租)を国民に課していた。所得は増えても地面は増えない。そこで年々増大する歳出をまかなう手っ取り早い方策として、酒税をどんどんあげたのである。ところが農民が酒を自給自足してしまうと税収が減って困るので、まず明治15年(1882年)、政府は酒の自家醸造を免許制にして手数料をとり、生産量も年間一石(180リットル)以内に制限した。そして明治32年(1899年)、ついに酒の自家醸造自体を禁止してしまった。これが「どぶろく禁止令」で、以後、この「迫害」は現在に至るまでつづいている。

どぶろく製造の制限や禁止は陶製品の需要に一定の影響を与えたかもしれないが、それが白岩焼を廃業させたとは思えない。というのも、地方の農民の多くはお金を払って酒を買うほどの経済的余裕がなかったし、米と水と手間があれば酒はいくらでもつくれたから、実際のところ官憲の目を隠れてどぶろくを密造したのである。資料によれば明治末期から昭和はじめ頃にかけて、酒の密造の摘発件数はほとんど毎年秋田県が全国一で、2位以下に大差をつけている。税務署の役人が村に来るという情報を得ると、村人は一致団結してその情報を仲間うちはもちろん隣村にまで伝え、酒造りの痕跡を隠蔽した(「いんぺい」はどぶろくを意味する隠語のひとつでもあった)。高額の罰金が払えなくて娘を売ったとか、一家離散したとか、税務署員が襲撃されたとか、悲劇的な話も伝わっている。

The Shiraiwa pottery was most active in the mid 19th century, and finished their business before entering the next century probably because of prevalence of low-cost porcelains, the Rikuu earthquake in 1896, and simply bad management. It has also been pointed out that an impact of a ban on home brewing was considerable. There had been no restriction against home brewing even in the Edo period. In particular, Akita was a paradise of doburoku (homemade unrefined sake) because of an abundant crop of rice and, more simply, people's enthusiasm for drinking sake. Shiraiwa earthenwares were very useful in brewing and preserving.

It is surprising that, in the late 19th century, nearly one-thirds of the total tax revenue of Japan was from a liquor tax. The major tax from ordinary people was not an income tax but a tax for land ownership at that time. As the land did not expand, it was easy for the government to increase a liquor tax to catch up with the expanding national budget. However, a liquor tax did not increase unless farmers stopped home brewing. That was why the government decided in 1882 to permit home brewing for those who had paid a fee, and finally prohibited everything about home brewing in 1899. And this rule is active in Japan even today.

I don't think that the doburoku prohibition was very crucial in destroying Shiraiwa's business, because many farmers secretly brewed with plenty of rice, water, and time, and did not want to pay for expensive sake. Illegal brewing was especially rampant in Akita, which held the first place in the ranking of arrestees almost every year in the early 20th century. People built a network even in the era without telephone to transmit any information that a tax collector came to a village. A Japanese word Impei (to hide something) meant doburoku itself. Tragedy happened such as a young daughter was sold to pay a penalty, a family was broken up, and a tax collector was attacked.

参考

  • おもに以下の資料を参照した:

  • 樺細工伝承館(秋田県仙北市)で展示されていた白岩焼の「なまこ釉大すず」。2023年12月に撮影したもの。

  • 左はおそらく二升入り。腰回りに筋目をつけている。「ニ瀧」の刻印があるので、明治期の白岩焼であることが確実である。右は三升入りか。 Similar Shiraiwa bottles, displayed at History Museum of Kabazaiku, Kakunodate, Akita.
  • 角館の武家屋敷群は観光地として有名であるが、下の写真はそのひとつである青柳家で展示されていた白岩焼。2023年12月に撮影したもの。ここは民間の施設ではあるが、郷土のさまざまな歴史・民俗資料を展示しており、こと白岩焼に関して言えば、秋田市内の県立博物館なんか足元にも及ばないくらいだ。なおここの展示品のすべてが白岩焼かといえば、ちょっとこころもとない。一部、楢岡焼も混じっているようにおもわれる。

  • 大すずがいくつか展示されていた。腰回りに筋が何本か刻まれているのは白岩焼のしるしと言われている。 Shiraiwa earthenwares displayed at Aoyagi House, Kakunodate, Akita.
  • 「大仙市文化財調査報告書 楢岡焼」(第15集、アイテックス、2012年)に掲載されている楢岡焼の大徳利の写真。器高がのきなみ 40 cm を超えており、かなりの大容量である。一般に、楢岡では土に砂を混ぜて耐火度をあげ、厚手の大物を多く焼いたと言われる。いっぽう白岩の土はもともと耐火度があり、比較的薄手でシャープな造形の小物〜中物を多く焼いた(宮本康男「白岩焼と楢岡焼」)。この小文で紹介した大すずも楢岡産の可能性がないとは言えないが、高台のつくりや腰回りに筋を彫る細工など、白岩の特徴を多く有しているようにおもう。

  • これらの大徳利は、発掘品もしくは伝世品であり、楢岡焼である可能性は非常に高い。楢岡焼と白岩焼はよく似ており、一般に鑑別は困難である。 Old bottles of the Naraoka pottery, quoted from an official report on excavation investigation. Some of them were excavated from around an old kiln, and some are from personal or public collections.
  • 「日本やきもの集成1」(1981年、平凡社)に掲載の白岩大すず。高さ 40.0 cm。「イ直」の印銘があるので白岩産であることが確実である。

  • おなじく「日本やきもの集成1」に掲載の楢岡大すず。高さ 33.4 cm。ちょっと変わった釉薬。

  • 「日本の古徳利」(1982年、みちのく陶庫)に掲載の楢岡大すず。高さ 35.8 cm。このデザインの大徳利が「どぶろくすず」と呼ばれていたこと、オリジナルは白岩であることが記されている。

  • 秋田県立博物館にも古いやきもののコレクションがあるはずだが、基本的にその価値を認めていないらしく、常設展示はしていない。アキハクコレクションと題してウェブ上で白岩焼の大すず(高さ 37.5 cm)と楢岡焼の大すず(高さ 41.3 cm)の2点の画像を公開している。前者は注ぎ口がついていてめずらしいタイプだ。

  • 以上の類例からあきらかに、肩の部分が鏡餅のように段々になっている大徳利は、19世紀の秋田県仙北地域で盛んにつくられた。酒好きの秋田人のことだから、この容量でも2、3日で空にしたことだろう。これが秋田独特のデザインなのか、他の地域でもこのような大徳利をつくっていたかどうかは、不勉強につき定かでない。

  • 総務省統計局が実施する「家計調査」によると、一世帯あたりの日本酒(清酒)の年間消費量または金額は、都道府県庁所在地の中では例年秋田市がトップ争いを演じている。米の秋田は酒の国で、県民の酒に対する執着は人一倍強いのである。2升、3升といった大徳利の需要も大きかったと言えよう。

  • 「一升びんガイドブック」(日本酒造組合中央会 編集、2018年)によれば、ガラス製の一升瓶を機械で大量生産できるようになったのは大正末期とのこと。

  • 明治期の酒税や酒の密造の取り締まりについては、税務大学校租税資料室の特別展示「明治の酒税」(平成21年度)や「酒税が国を支えた時代」(翌年度)に解説がある。