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黄鉄鉱の二十面体結晶 Icosahedral Crystal of Pyrite

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Ani Mine, Kita-Akita City, Akita, Japan (秋田県北秋田市 阿仁鉱山) Size: 92 × 72 × 42 mm / Weight: 400 g 緑泥石に富む脈中の晶洞に径 2 cm を超える黄鉄鉱の結晶が着生したもの。黄銅鉱、重晶石もみられる。黄鉄鉱の結晶は光輝に富んでいて、そのうちのいくつかは、正二十面体によく似た形状(20個の三角形で構成される多面体)をしている。 多くの場合、黄鉄鉱の単結晶は以下の3つのうちのどれかに近い形をしている: 立方体(6個の四角形で構成される) 五角十二面体(12個の五角形で構成される) 三角八面体(8個の三角形で構成される) 立方体がもっともありふれていて、つぎに十二面体がよくみられ、そして八面体は比較的珍しい。これらのうち十二面体の結晶面と八面体の結晶面とがある一定の割合を保ちつつ同時に成長してはじめてできるのが、この二十面体の結晶である(下のムービーを見よ)。自然界でこのような事象が起こるのはかなり稀なことである。 黄鉄鉱の八面体の面 o(1 1 1) と十二面体の面 e(2 1 0) の両方があらわれるような結晶で、o 面と e 面とが現出する割合を変えたときの結晶図を連続的に示す。作画は smorf.nl というサイトを利用した。二十面体っぽく見えるのは o 面と e 面の割合がある値に近いときに限られる。なお黄鉄鉱の五角十二面体と三角二十面体は、数学的に定義される正多面体(合同な正多角形で囲まれる多面体)ではない。 黄鉄鉱の二十面体結晶は、日本では秋田県の阿仁鉱山産がもっともよく知られていて、他には秩父の和那波(わなば)鉱床でもみられたようである(伊藤貞市・桜井欽一「日本鉱物誌 第三版」、原著:和田維四郎、中文館書店、1947年)。阿仁合駅のそばにある「 阿仁異人館・伝承館 」で明瞭な二十面体を示す黄鉄鉱の標本が展示されているのを見たことがある。三菱マテリアル所蔵の和田標本にも同じ阿仁鉱山産や島根県の鵜峠(うど)鉱山のものが収まっているが、不明瞭である( 東京大学総合博物館のデータベース で画像を見ることができる)。 標本の動画。 砂川一郎「黄鉄鉱...

農民美術 The Peasant Art

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「農民美術」とは、画家の山本鼎(やまもとかなえ:明治15〜昭和21年/1882〜1946年)が提唱した一種の芸術運動およびそこで生まれた作品群のことで、大正末から昭和初期にかけて全国的に流行した。その全容については、 「はじめまして農民美術」、宮村真一・小笠原正 監修、グラフィック社、2022年 ( リンク ) という本がさいきん出版されていて、そこにくわしく書かれている。この記事の内容ももっぱらこの本によっている。 こっぱ人形 1. 立像 2種 左: 浅井小魚 作、高さ 9.1 cm 右: 正峯 作、高さ 7.8 cm どちらも1個の木片を彫ってつくった人形である。「農民美術」の世界ではこうした木彫の小品のことを木片(こっぱ)人形と呼んでいる。 左は秋田の鍛冶職人にして郷土史研究家・俳人でもあった浅井小魚(あさいしょうぎょ:明治8〜昭和22年/1875〜1947年)が昭和初期につくったもの。ほっかむりをして菰(こも)を背に当てた女性は、表情がおだやかで、いかにも秋田の農村の光景をおもわせる。「農民美術」が全国的広がりをみせていた昭和3年(1928年)、地元鹿角郡大湯町にて開かれた木彫の講習会に参加した小魚は、その後10年間ほど、こうした人形を制作し、土産品などとして販売した。上の農婦像は、講習会の講師として招かれた彫刻家・木村五郎が最初に提案したモチーフのひとつで、他の作者の同題作品も存在する(「大湯木彫人形」鹿角市歴史民俗資料館、2021年  リンク )。小魚の創作活動は「農民美術」の当初の理想どおりには必ずしも進まなかったようだが、この小作品からは、日本が戦争に突き進む直前の、ひとときの思想・文化の高まりが伝わってくるような気がする。 右は茨城県の霞ヶ浦周辺地域(旧新治郡、行方、鹿嶋、鉾田など)で昭和初期から昭和40年頃までつくられたとされるポプラ人形。当地に自生するポプラの木をつかった土産品として当時はそれなりに知られていたようだ。作者は正峯。いろいろ調べたが、正峯がどのような人だったのかはわからなかった。小品ながら実にほがらかな表情を彫り出していて、技術的に相当高度な領域に達しているのではないかと、美術のしろうとのわたしはおもう。 彫刻だけでなく、きれいに彩色までしていて、これ...

古い土人形につかわれている胡粉の検出 Detection of Gofun Whiting from Old Clay Dolls

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今回の実験のために用意したもの。 日本の土人形は、型どりによって成形した粘土像を素焼きした後、白い塗料を全面下塗りし、それから各部分を彩色する、という工程でつくられた。下塗り(地塗り)には「胡粉」(ごふん)という白色顔料をつかうのが一般的で、これは御所人形や木目込(きめこみ)人形など伝統的な日本人形の仕上げ方とおなじである。 秋田の中山人形は、明治・大正期には宮城県鬼首(おにこうべ)産の白土(はくど)を下塗りにつかっており、胡粉の使用は昭和初期になってからだったという(秋田県文化財調査報告書 第202集、秋田県教育委員会、1991年  リンク )。したがって、古い中山人形を手にしたときに、胡粉がつかわれているかどうかを知ることができれば、それが明治・大正期のものか、昭和初期頃のものかを鑑定することができて便利であろう。また全国の土人形産地における胡粉使用の有無がわかれば、出自不明の古人形の制作地や年代を推定したり、あるいは土人形づくりの技術の伝播経路をあきらかにするのにも役立つかもしれない。 胡粉は貝殻を粉砕したものなので、主成分は炭酸カルシウムであり、塩酸をかけると二酸化炭素を発生して溶解する。鬼首の白土は温泉による変質作用で生じた粘土鉱物やシリカが主成分なので(7万5千分の1地質図幅「鬼首」説明書、地質調査所、1958年  リンク )、塩酸とは反応しない。したがって、古人形を多少傷つけることにはなってしまうが、下塗り部分を削りとって塩酸をかけてみて、発泡しながら溶けるかどうかを見きわめれば、その人形に胡粉がつかわれているかどうか判別することができよう。これは、岩石のサンプル中に方解石(これも炭酸カルシウム)が含まれているかどうかをしらべるのに塩酸を垂らしてみる、という古式ゆかしき鉱物鑑定術と同じである。 以下、その実験の記録。 用意したもの 塩酸。三谷産業の「Cimacil 塩酸 8% 500 g」を通販で 入手(送料込みで2300円)。ちなみに塩酸は塩化水素濃度 10% 以下ならばだれでもふつうに購入できる。 インジェクター(先が尖っていない注射器みたいなもの)。ミネシマの「インジェクター・3pcs」でプラモデル製作などで接着剤を塗布するためのもの。3個も要らなかったが家電量販店で 400 円ほどで売ってたので...

ウチコミの土人形 Uchikomi-type Clay Doll

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高さ 11.3 cm うさぎが羽織袴で正装している。古色のつき具合いや顔料の感じからして、明治前期かひょっとすると江戸期の古人形と推測する。擬人化された動物は当時の浮世絵、おもちゃ絵の類によく描かれている。昔話の登場人物かもしれない。 ふつうの土人形とちがって奥行方向にかなり薄い。山本修之助「佐渡の郷土玩具」(佐渡郷土研究会、1973年  リンク )の記述をふまえると、これは新潟県佐渡市八幡(やはた)地区で江戸後期から昭和初め頃までつづいた「八幡人形」ではないかと推測する。八幡では、内部が空洞のふつうの土人形に加えて、木型をもちいて、打ち菓子をつくるような要領で中まで土をつめこんだ薄型の人形もつくった。「ウチコミ」と呼ばれるこの製法は全国的に見てもめずらしい。 A rabbit is dressed in a men's formal kimono. It appears to be made in the mid 19th century. The motif of animals behaving like human being was frequently seen in the ukiyo-e of the same age. The body is exceptionally thin. I guess this peculiar clay doll was made in Yahata, Sado Island, Niigata, according to literatures. The inner part of most Japanese clay dolls is hollow. In Yahata and some other places, however, thin solid "uchikomi" dolls were also manufactured with wooden molds. 煤けていて、お顔の判別はむずかしい。耳と着物には朱、袴には緑、羽織はちょっとわかりにくいが群青色がつかわれているようにみえる。 背面にも造形がほどこされている。2枚の木型をつかって両側から粘土を押し固めるような製法だったと想像する。 真横から見るとずい...

秋田の中山人形 Nakayama Doll in Akita

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作品 古い時代のもの #1(左):子連れの少女、高さ 16.1 cm #2(右):子を抱いた女、高さ 12.1 cm いずれもネットオークションで入手したものだが、秋田県の横手市(旧平鹿町)でつくられた中山人形でまずまちがいないだろう。左の人形には前の所持者によって付箋が貼られていて、「子連れおつかい」というタイトルがついている。右は「子抱き」と呼ばれることが多い。塗料の質感からして、ともに昭和初期頃かそれ以前の作品とおもわれる。着物の花柄は花巻人形のものと似ているが、これは中山を象徴する文様として今日まで継承されている。どちらも底が粘土でふさがれ、ちょっとへこんでおり、おなじ秋田県の八橋人形の影響が示唆される( 参考画像 を参照のこと)。他にも、粘土のかけら(いわゆるガラ)が中に封入されていて振ると音がすること、独特の蛍光を発するつや出し剤(ニスのようなもの)が部分的に塗られていることなど、古い八橋人形との類似性が認められる(あるいは八橋が中山に似ている、とも言える)。 八橋人形の特徴(底のへこみ、ガラ、蛍光するニス)については 前の記事 を参照のこと。 それなりに古い時代のもの #3(左):角力とり、高さ 9.1 cm #4(右):子を抱いた女、高さ 15.1 cm これらはともに「秋田中山」の刻印が背部に押されている。この刻印がいつから押され始めたのか定かでないが、すくなくとも戦後のこと(昭和30年代?)と推測する。右の「子抱き」は前掲の #2 をひと回り大きくした型で、着物の柄もおなじ。背面に前の所持者のメモ書きがあって、昭和40年に瓦山(樋渡義一のことで当時60才くらい)の作として入手した、とある。底が紙張りであること、前掲の #1 や #2 とは異なるつや出し剤が塗布されていることなど、古い時代の中山人形とはだいぶ趣が違う。左の力士像は作者不明だが、やはり同時期の作のように感じられる。 近年のもの #5(左):天神さま、高さ 10.4 cm #6(右):鉞兎、高さ 12cm 左の天神像はすでに 前の記事 で紹介した。秋田市内の土産店で2010年頃に購入したと記憶する。着物の柄は中山伝統の花弁文様だが、昔のものにくらべるとだいぶすっきりしたデザインだ。右はごく最近手に入...

八橋の土人形 Yabase Clay Dolls

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古来、秋田市八橋(やばせ)地区では土人形づくりがおこなわれていて、子どもの玩具もしくは縁起物として親しまれてきた。八橋の土人形については すでに一度記事を書いた が、ここではその後の収集の成果のうち、明治から昭和初期頃につくられたと考えられる、比較的古そうなものについて書き留めておこうとおもう。なお産地・制作年代等はわたしの推測であって、100%確かなわけではない。 I have shown some clay dolls made in the Yabase area, Akita, Japan, in my previous post . Here I will show my new acquisition, focussing on relatively old products from the Meiji to the beginning of the Showa periods. 目次 作品 考察1: いわゆるガラについて 考察2: ニスのようなものについて 考察3: 底のつくりについて まとめ 補足 追加画像 訃報 作品 Works 女子 Women #1: 振袖の女(左) 高さ 13.3 cm #2: 羽子板をもつ女と子(右) 高さ 12 cm これらはともに明治期の古作と考えられる。お顔だちはもとより色づかいも似ており、同じ時期に、同じ工房でつくられたことをおもわせる(この頃の八橋には人形をつくる家がすくなくとも3軒はあった)。日本髪の生え際の表現や着物の柄などに堤人形や花巻人形の影響が多少みられるが、それでもどことなく秋田っぽい、いい意味での田舎くささがにじみ出ているようにおもう。全体の調和、素朴さ、ほがらかさはこの時代の八橋人形の真骨頂といえる。どちらも人形内部に粘土のかけらのようなもの(ガラ)が封入されていて、振ると音がする(これについては後述する)。 These dolls were probably made in the Meiji period (the late 19th century). The faces and the colors suggest they might be made at almost the sam...