村山地方の土人形 Clay Dolls in Murayama District
かつて東北地方には土人形の産地がたくさんあった。江戸期の堤人形、花巻人形、相良人形など、美術的評価がある程度定まっているものは別として、明治以降のものは安価で程度の低い土俗の玩具とみなされる傾向にあり、いまでは顧みる人もすくない。上の写真はそんな「歴史に埋もれた」土人形の典型例というべきものだ。堤人形と似た点があるので愛好家や古物業者は「堤の脇窯」もしくは「堤系」の人形と呼んでいる。幕末から明治にかけて山形県の村山地方で製造されたと考えられるものの、どこのだれがつくったのかよくわかっていない。
There were once many clay doll manufacturers in the Tohoku Region, Japan. Apart from old Tsutsumi (Sendai), Hanamaki, and Sagara (Yonezawa) dolls in the 18th or early 19th century, later ones tended to be thought as cheap, low-quality, worthless toys. That is why the clay dolls in the above picture are of uncertain origin, though they were likely produced in the Murayama district, Yamagata, in the mid or late 19th century. As there is a similarity to the old Tsutsumi, antique collectors and dealers often call it a "Tsutsumi-related" doll.
大黒さま Daikoku
これは土赤五郎吉なる工人がいまの東根市猪野沢(いのさわ)地区で明治期に製作した、と古人形愛好家が推定している人形(「郷土人形図譜・堤系人形」のBグループで猪野沢人形と呼んでいるもの)と似た点がある。全体を彩る赤色顔料がたいへん鮮やかでインパクトがある。本来は右手に小槌を持ち、左肩に袋をかつぐ大黒さまをかたどった土人形のはずだが、どうも絵付けが「いい加減」で、いまいち何を持っていらっしゃるのか不明瞭だ。作者と推定される五郎吉は豪放らい落な人物で知られたそうで、そんな性格の一端が作風にもあらわれたのかもしれない。人形の出来不出来とかそういうものを超越した、生来の明るさのようなものが感じられる。
This doll is similar to the ones that are presumed by some clay doll collectors to be created by Tsuchiaka Gorokichi in Inosawa, Higashine City, in the late 19th century. The overall red color is impressive. Daikoku commonly holds a mallet and a big cloth bag, but it is unclear what this Daikoku has in his hands. This vague drawing might reflect Gorokichi's bold personality as a legend says. I think it emits a strong cheerfulness from inside.
獅子舞 Dance of Lion
少年のお顔が部分的に摩滅しているのが残念だが、三角の目や髪の毛の描き方によどみがなく、なかなかに熟練したスキルを示している。獅子の顔もユーモアに富んでいて、全体的にほがらかで明るい印象だ。「郷土人形図譜・堤系人形」の著者らはこれと同型の人形の作者を、明治期に山形市郊外で陶工として知られた奥山与六と断定し「与六人形」と名づけているが、本当にそうかどうか確証があるわけではない。
The boy's face is sadly scratched. However, the drawings of eyes and hairs are enough to show the craftsperson's skill. The lion's face is funny. Some clay doll collectors guess similar ones would be created by Okuyama Yoroku, a potter worked in the suburbs of Yamagata City, though there is no certain evidence.
これら2点は村山地方を中心に蔵出ししている地元山形の業者から入手したもの。村山地方での土人形づくりは幕末から明治期にかけて50年ほどつづいたとされるが、いまではそうした事実を知る者もほとんどなく、人々の記憶から失われようとしている。いったい当時の人々は、この色鮮やかで、いかにも楽しげな土人形を、どんな思いで飾ってめでていたのだろうか。
I obtained these dolls from a dealer who collected old things mainly from the Murayama area. Doll manufacturing in Murayama is said to continue for about 50 years, but most of the local people forgot their ancestors loved this kind of cheerful icons.
補足
参考文献:
- 「堤系人形」郷土人形図譜6号、日本郷土人形研究会、2006年
- 板垣英夫「山形県の土人形」山形県立博物館研究報告 3号、1975年
- 足立孔「東北の土人形」(「日本の土人形」俵有作・薗部澄 編、126〜135ページ、文化出版局、1978年)
- 「やまがたの峠」読売新聞山形支局、高陽堂書店、1978年
- 「山形市史 別巻2(生活・文化編)」山形市、1976年
「郷土人形図譜・堤系人形」はカラー写真が豊富で、人形あつめをはじめて2年足らずのわたくしにはたいへん参考になる資料だが、産地や作者の推定に関する記述には説得力に欠けるところがあり、すべてに首肯できるかと言われると、うーんと首をかしげたくなる部分もある。土人形に限らず、この時代の職人は自分の作品にサインを入れることはほぼなく、たまたま手にした古人形の作者を推定するなどという芸当はほとんど不可能なのである。文献や資料の発掘、土や顔料の科学的分析、あるいは3次元形状や色のデータを大量にあつめてAIを駆使して類似点を抽出するなど、あらたな客観的情報が必要である。
東根市猪野沢地区には幕末から明治にかけておもに陶器をつくる窯が数基あった。土赤五郎吉はその窯元のひとりだったが、土人形づくりにも傾倒し、堤で技法を学んだ、との口伝がある(板垣「山形県の土人形」)。五郎吉は大正4年(1915年)または別の文献では昭和2年(1927年)まで存命で、生前の人形づくりのようすを記憶している人の証言が残っており、作品は「五郎びな」として多くの人に愛されていた(「やまがたの峠」)。また卯平なる職人も当地で人形づくりをおこなったらしいが(板垣「山形県の土人形」、「郷土人形図譜・堤系人形」)、活動時期やその作風など、くわしいことは不明である。
奥山与六の本業はやきものづくりで、山形市西部の柏倉(かしわぐら)や門伝(もんでん)にておもに磁器をやいた。名工として知られ、子孫のお宅には作品がいくつか伝えられている(「山形市史 別巻2」)。与六が土人形づくりをおこなったことに関してはなにがしかの口伝があるようだが(足立「東北の土人形」)、それを直接的に示す資料はいまのところなさそうである。奥山家の人も人形づくりの話は聞いていないようだ。「郷土人形図譜・堤系人形」ではある種の「消去法」を駆使して与六人形の存在を推断しているが、その論理はかなり怪しい(著者たちの自信度は75%だそうだ)。没年が明治36年(1903年)なので、まだ昭和前期頃までは当時のようすを知る人が複数いたとおもわれる。今後あらたな資料がでてくることを期待したい。
明治期の村山地方では、他に東根市泉郷(いずみごう)に狐石(きつねいし)焼と呼ばれるやきもの窯があって、土人形もつくられていた。またやや時代は下るが中山町でも土人形がつくられた(竹鍛冶人形)。やきもので有名な平清水でも土人形がつくられた時期があるようだ。
追記
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下の写真はその後入手した、やはり幕末〜明治期の村山地方でつくられたと考えられる大黒さまと恵比寿さま。全体の色彩感覚、描き方には共通するものが感じられる。
左のえびすさまの高さは 14.4 cm。大黒さまは「郷土人形図譜・堤系人形」の No.36 と同じ型だとおもわれる。 (2025年5月11日)