中山人形と樋渡ヨシ
Here I show old Nakayama clay dolls, Akita, Japan, from my collection. Some of them are supposed to be made in the Meiji and Taisho eras (1920s or before) by Hiwatashi Yoshi, who was the founder of doll making in Nakayama.
はじめに
秋田県横手市で樋渡(ひわたし)家の代々がつくっている「中山土人形」の実例とその歴史については、1年ほど前にこのブログで記事を書いた。その後に入手した人形の画像も同ページに随時追加している。
中山人形は、明治初期に樋渡ヨシがつくり始めたとされる。しかし創業当初の古い作品については、実物はおろか、書物等で紹介されることもほとんどなく、謎が多い。
ヨシは数多くの人形をつくったらしい。一説には、彼女の人形型は400〜500種もあったという(武井武雄「日本郷土玩具 東の部」1930年 リンク)。にもかかわらず、残念ながら、彼女が型づくりから絵付けまで一貫して手掛けたという土人形の確かな実例に、わたしは出会ったことがない。こうした状況は、土人形に興味をもちはじめて3年ほどのわたしにとって、いかにも欲求不満である。
以下では、最近わたしが手に入れた古人形の中から、ヨシ本人の手になる作品ではないか、とおぼしきもの、あるいはその可能性がわずかなりともあるものをいくつか紹介し、あわよくば、彼女の人形作家としての実像の一端に迫りたいとおもう。
なおここで紹介する人形には、すでに前の記事で紹介済みの人形も含まれる。
作例1: 歌舞伎や芝居の登場人物
政岡
歌舞伎の演目、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)の登場人物、政岡(まさおか)をかたどった土人形である。なにかを睨みつけるような表情、伊達家の家紋を連想させる竹をあしらった豪華な着物、それをたくしあげる仕草など、田舎の一工房がつくったとは思えないくらいの出来映えで、まさに浮世絵を立体化したかのような、洗練された作品にしあがっているとおもう。
勝頼
前の所持者のメモ書きによれば、これも歌舞伎の一場面に取材したもので、本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)の武田勝頼(かつより)、とのことである。他の主要登場人物である八重垣姫などもいたはずだが、入手できたのはこれ一体のみ。ちなみに八重垣姫の土人形は、堤や花巻などに実例があり、兜を手にしているのが通例である(たとえば「堤人形の美」仙台市博物館、1989年など)。
後述するが、ヨシは歌舞伎や芝居が好きで、よく見に行ったという。これら#1・#2の人形の型が、ヨシの創作である可能性はかなり高い。
作例2: 当時流行した服飾
男の装い
男が羽織っている丈の短いコートはインバネス(Inverness)というもので、明治中頃から戦前にかけて「二重回し」「トンビ」の名で流行した(たとえば「化粧文化 ウチの江戸美人 コスプレじゃないから」ポーラ文化研究所、2024年)。ちょうど和装から洋装に転換する時期で、和洋折衷のスタイルが「新しい」ファッションとされた。
男の足元に子犬がじゃれついているのがおもしろい。渋谷の忠犬ハチ公が有名になったのは昭和7、8年頃である。なにかとってつけたような造形であることから、当初の型には犬はいなかったが、ハチ公の人気にあやかって、てびねりで犬を貼りつけた可能性もなくはない。
女の装い
女性の服装は昭和初期頃でも和装が主流だったといわれる。この女性は振袖の上に袴を着用しているので、女学生をモチーフとしたものだろう。ウール素材とおぼしき肩掛けはなかなかおしゃれだ。髪型もモダンな感じがする。明治30年代に流行した「廂髪・庇髪(ひさしがみ)」「二百三高地髷」などに該当するかもしれない(たとえば「化粧文化 もっと知りたい日本髪 廂髪」ポーラ文化研究所、2022年)。
女児の装い
#6 少女の立像(右) 高さ 11.2 cm
どちらの女の子も和装だが、上になにかを羽織っている。右の子(#6)のスモックのような服は、当時は「西洋前掛け」などと称した。もともとは実用品で、着物の汚れを防ぐためのものだったが、ファッションとしても流行した(たとえば「デジタル港区教育史 見る・知る・伝える 標準服・運動着」港区教育委員会、2026年)。左の子のは袖がかなり長く、よりファッション性が高い。いずれにしても明治後期〜大正期頃の女児の「よそ行き」の一形態を示している。
以上の4例(#3〜#6)がヨシの作品かどうかは確証がない。ただこれらに共通しているのは、明治後期から大正期にかけての、一般庶民の「おしゃれ」の感覚が、立体作品の中にじょうずに織り込まれている点だ。当時の流行を追う作者の鋭いまなざしを感じる。
その他の作例
女の立像
#7と#8は、「#1 政岡」と同様、歌舞伎などの登場人物をおもわせるが、残念ながら知識に乏しく、くわしい由来は不明。#9の女性の髪型は「#4 女学生」と似ている。当時の流行りの髪型だったのだろう。
中山人形には、このような成人女性をかたどった、大型の(高さが6〜7寸ほどの)土人形の作例が多い。少数の型をもとに人形を量産した、というよりは、型をたくさんつくって、それぞれの型の人形は少数生産だったように見受けられる。これらの作者は、さまざまな人形型を案出・創作すること自体に喜びを見出すような、まさに人形作家然とした人だったのではなかろうか。
子ども連れ
#11 子を背負った少女 高さ 14.9 cm
#12 子を抱いた女 高さ 15.5 cm
いずれも少女もしくは若い女が幼児を連れている。とくに真ん中(#11) の少女は晴れ着を着ているが、それでも年少の子どもを背負っている。昨今は「ヤングケアラー」として社会問題になっているが、昭和中期くらいまでは、小学生くらいの子どもが、自分の弟や妹をおんぶして子守をしながら外で遊ぶ、などという姿は、東北に限らず、地方の街角でふつうにみられた。
天神像
#14 天神さま(右) 高さ 8.6 cm
中山の天神人形には数種ある(武井武雄「日本郷土玩具 東の部」)とされるが、上に挙げた例は中・小型に属するものだろう。中型の天神(#13)の背面にみられるかまぼこ型の文様は袴、その左上の棒状のものは刀をあらわすのだろう。
少女の坐像
#16 団扇をもつ少女(右) 高さ 9.6 cm
これらは同じ型だとおもうが、絵付けがかなり異なる。右側(#16)の少女の着物の花柄は、白の顔料がちょっと盛り上がっていて、土人形としては異例である。底も和紙張りで、この時代の中山では珍しい。
戦争もの
この兵隊さんは右手にラッパをもっていることから、日露戦争に従軍し、死んでも口からラッパを離さなかった、として当時の学校の教科書にも掲載され、英雄視された木口小平を意識した作品かもしれない。こうした戦争ものの土人形は全国の産地で数多くつくられている。中山では他に「馬乗り鎮台」もつくられた(武井武雄「日本郷土玩具 東の部」)。
動物
#19 犬(右) 高さ 6.2 cm
これら2体は顔料や絵付けの特徴が似ている(たとえば黒い羽、毛の部分を灰色で縁どる、など)ことから、おなじ工房でつくられたと考えられるが、くわしい産地は不明。しかし下地に白土が塗られていること、底のつくり、そして秋田周辺から採集されていることなどから、消去法的に、中山産であることが疑われる。ただ、これまで紹介したものに比べて、造形・絵付けともにやや稚拙さが否めない。中山人形はサイズが大きい傾向があるが、これらはかなり小型である。十二支は「⋯ さる → とり → いぬ → いのしし ⋯」とつづくので、猿や猪の人形も存在するかもしれない。
中山人形の特徴
以上紹介した土人形が、明治期から昭和初期までのあいだに、旧平鹿町中山地区で、樋渡家の人によってつくられたのは、ある程度確かだとおもう。
古い中山人形の特徴として、以下の点が挙げられる:
- 下地に白土(はくど)を塗っている
- 底が粘土でふさがれていて、かつちょっとだけ内側にくぼんでいる
- オレンジ色がかったあざやかな朱色の使用
- 花柄文様
- 独特の面相
以下、これらについてくわしく述べる。
1 白土の使用
樋渡家で下地に白土を塗っていたのは明治・大正期のことで、昭和期になると、貝殻をすりつぶした胡粉(ごふん)に切り替えた(「秋田県文化財調査報告書 第202集」秋田県教育委員会、1991年 リンク)。今回示した人形の下地をしらべたところ、胡粉をつかっていたのは「#4 女学生」のみで、それ以外はすべて白土と推定された(確認方法についてはこちらの記事を参照のこと)。樋渡家における胡粉の使用がどのような経緯ではじまったかの詳細は不明だが、すくなくとも「#4 女学生」以外については、昭和初期以前につくられたと考えて矛盾はない。
2 底のつくり
今回示した人形のうち、「#2 勝頼」「#16 団扇をもつ少女」以外の底部はちょっと凹んでおり、古い時代の中山の特徴を備えている。なおおなじ秋田県の八橋人形も同様の底の形状を示すが、八橋では下地に胡粉をつかっているので、両者は区別できる。
「#2 勝頼」「#16 団扇をもつ少女」は底に和紙が張ってあり、これはむしろ昭和期以降の中山人形の特徴と合致する。しかし下地は白土塗りなので、新旧の特徴が混在している、と言える。「#2 勝頼」は長袴のすそが横に大きく広がっていて、通常の底の細工が難しいため、例外的に紙張りにした可能性もある。
なお岩手県の花巻人形の多くは、すくなくとも明治期以降は、紙張りの底を採用している。花巻でも地塗りに白土をつかっていたので、花巻と中山とには多くの共通点がある、と言える。
3 顔料
オレンジ色の顔料は#1、#4、#6、#9、#11、#12 などにつかわれている。古い伏見人形や、伏見系と言われる鶴岡人形、八橋人形にもあざやかなオレンジ色の顔料が見受けられるが、中山のそれはやや赤みが強く、かつ表面に照りがあるのも特徴だ。東北近隣の産地ではあまりみかけない色で、わたしの経験上、この顔料があると中山だとすぐわかるくらいである。
鉛丹(えんたん)とよばれる鉛を含有する顔料をつかっている可能性がある。表面の照りが何に由来するのかも含めて、科学的な成分分析が求められる。
4 花柄文様
5 面相
歌舞伎もの(#1・#2)や比較的大型の成人の立像(#3・#4、#7〜#9など)は、とくに時間をかけて制作されたとみえて、絵付けがていねいで、お顔も端正である。とくに、
- 眼点が表現されている
- まぶたをあらわすとおぼしき線が、目と眉毛のあいだに引かれる
などの点が特徴的である。とくに後者の「まぶた」の線は、東北近隣の産地では、花巻人形でもしばしばみられる。こうした描き方は、むしろ伝統的な日本人形に通ずるものでもある。これらの人形の作者が、ある種の芸術家としての矜持をもって、人形に向き合っていたことを示唆する。
髪の生え際の「ギザギザ」も特徴的である。この描き方も花巻人形に似ているとおもう。とくに少女の前髪が直線的で、ノコギリの刃のように描かれているのがおもしろい。
以下に示す一覧表は、今回紹介したすべての人形のお顔部分の写真と、いくつかの特徴についてまとめたものである(とくにオレンジ色の顔料をつかっているものには●印をつけた)。こうして見ると、なんとなく共通性が見いだせるような気もするし、いくつかの類型に分類できそうな気もする。ただ、そうした判断はいかんせん主観的な基準に依らざるをえない。
考察
1 中山人形の制作者
樋渡ヨシの没年は昭和8年(1933年)なので、彼女が人形づくりに関与したのはそれ以前のことである。この時代、とくに明治〜大正期の中山窯では、人形づくりの工程のほとんどすべてを、ヨシひとりでおこなっていた節がある。
- 山本鉱太郎「秋田が生んだ二つの土人形」(竹とんぼ II-32号、20〜24ページ、日本郷土玩具の会、1980年)
によると、ヨシの後添いの夫が源蔵で、その子が善高(明治17年生)、その妻がサダであり、さらに彼らの子(すなわちヨシの孫)が義一(明治38年生)、となっている(なおヨシの最初の夫・金太郎と、ヨシに人形づくりを伝授した宇吉とは、明治10年代に亡くなっている)。これらの人々も人形づくりを手伝ったとされるが、元型づくりや面相の筆入れなど、重要な作業はヨシの手でなされたのではなかろうか。
山本の記事には「善高はあまり器用ではなかったとみえ、夏は土管やレンガを焼き、冬だけ人形を手伝った」とあり、中山人形に対する善高の寄与はそれほど大きくなかったことを示唆している。
いっぽう、
- 村山東昌「秋田の郷玩 中山人形と樋渡義一さんのこと」(おもちゃ 26号、10〜11ページ、全国郷土玩具友の会、1957年)
には、「よしさんが昭和8年に逝ってからは二代目の善高さんが後継者になって中山人形の製作に拍車をかけ」た、また「善高さんは十二、三歳頃(※明治29、30年頃)から習い覚えた人形造りの技法が実を結んでその出来栄えも他の土玩を圧する気品が見られ」る、などと記されていて、すくなくとも昭和初期の中山人形に関しては、善高の寄与がかなりの程度あったことを伝えている。
ヨシの孫の義一は、昭和3年、仙台の堤人形の工房におもむいて当時の新しい技術を習得し、その後、それまでの中山人形を一新する「横手人形」を創出した(丸谷仁美「中山人形と横手人形 樋渡義一の活動を中心に」秋田県立博物館研究報告 47号、2022年)。したがって、昭和3年頃から、高齢により善高が人形づくりに関与しなくなる昭和10年代なかば頃までは、新旧の素材・技術が混在していた可能性がある。
2 樋渡ヨシの人物像
ヨシがどういう人だったかについては、孫の義一の証言によって、おぼろげながら知ることができる。たとえば前掲の山本の記事(1980年)は、当時70代前半だった義一へのインタビューをもとにしており、以下のようなヨシの素性、人となりが語られている:
- ヨシは、万延元年(1860年)に横手城下の足軽の家に生まれた。
- 着付け、髪結い、料理などなんでも器用にこなした。
- 歌舞伎や芝居が好きで、よく見に行った。
- 酒が好きで、興が乗ると得意の浄瑠璃の一節を披露した。
こうしたエピソードは、明治期の農村女性に対する安直なステレオタイプとは異なり、活発で、自信に満ちあふれて、芸能やファッションに高い感度をもっている、というような人物像を想起させる。ヨシが、着付けや髪結いといった技能だけでなく、粘土で人形をつくる、などという彫塑の才能までもちあわせていたとしても、不思議なことではない気がする。
ヨシの歌舞伎好きのエピソードは、歌舞伎の一場面をモチーフにしたと思われる作品が中山人形に多くみられる事実と整合的である。江戸後期から明治期の秋田では、日本の他の地域と同様、いわゆる地芝居が盛んにおこなわれており、歌舞伎に対する人々の注目度はいまよりずっと高かったと考えられる(たとえば「地芝居ポータル」や「森岳歌舞伎」のページ)。ヨシの創作人形が地元民に受け入れられ、それが中山人形盛業の礎のひとつになった、とも考えられる。
まとめ
以上、長々と書き綴ってきたが、今回紹介した土人形19点が、樋渡ヨシ本人によって制作されたものかどうかを示す客観的証拠は何もない。しかし、
- そのほとんどが白土塗りされていることから、少なくとも昭和初期以前の、古い時代の人形であること、
- 明治・大正期の人形づくりに、善高をはじめとするヨシ以外の親族が主体的に関与したとは考えにくいこと、
元型については、他産地の既製の人形をそのまま流用したのではなく、ヨシの手によって一からつくられた可能性が高い。そうしたオリジナリティは、とくに歌舞伎もの(#1・#2)、風俗もの(#3〜#6)、成人女性の立像(#7〜#9)などに顕著にみられる。絵付けにも、作者の感性の細やかさ、技能の高さが反映している。
今回紹介した人形には、善高や若い頃の義一、あるいは樋渡家の他のメンバーの手になるものもいくつか含まれていると考えられるが、それがどれなのかを客観的に割り出すことはむずかしい。絵筆のクセとか使用する顔料の変遷などを知るには、もっと数多くの中山人形を収集し、比較検討する必要がある。今回の人形には、制作年代を示す購入者の墨書きなどはなかったが、もしそういうのが今後出てくれば、中山人形の正確な編年が可能になるだろう。
補足
前掲の山本鉱太郎「秋田が生んだ二つの土人形」(1980年)および村山東昌「秋田の郷玩 中山人形と樋渡義一さんのこと」(1957年)には、歌舞伎関係の中山人形として以下の例を挙げている:
- 政岡・仁木弾正・ねずみ(伽羅先代萩)
- 権八・小紫
- お軽・勘平・大星由良之助・義士討ち入り三人組・鷺坂伴内(忠臣蔵)
- 関兵衛・墨染(積恋雪関扉)
- 岩藤・尾上(加々見山旧錦絵)
- 苅萱道心・石童丸
- 静御前・狐忠信(義経千本桜)
- 熊谷直実・平敦盛
- お柳(三十三間堂棟木由来)
- 梅川忠兵衛(冥途の飛脚)
これら20種以上の歌舞伎関連の人形がヨシの創作であることは、ほとんど疑いない。この時代、歌舞伎の登場人物を模した土人形は日本各地で盛んにつくられた。しかし、これだけの種類の人形をひとりでつくりあげた例は他にあるだろうか?ヨシの歌舞伎・芝居愛、土人形の創作意欲がどこからきたのか、興味深いものがある。
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中山人形には、花巻人形の強い影響が認められる。また底のつくりについて言えば、おなじ秋田の八橋人形の影響もみられる。
ヨシが宇吉から土人形づくりの手ほどきを受けたのが明治初頭で、当初は仕事のひまをみつけてこしらえた人形を近所の子どもに与える程度の、細々としたものだったと考えられる。ヨシの人形づくりが本格化したのは、明治10年代になって、夫と宇吉が相次いで亡くなってからと言われる。そして明治20年代になると「中山人形」として地元では知られる存在にまでなったという(くわしくは前の記事を参照のこと)。
今回紹介した人形は、おそらく明治後期以降のもので、すでに「中山人形」の作風が確立した後のものである。明治中期頃、ヨシの作風がいかにして醸成したのか、花巻人形や八橋人形の技術や意匠がどのように取り込まれたのか、だれかの指導が介在したかなど、興味あるところである。
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一般に、伝統的な土人形は、
- 元型(原型)づくり: 粘土で塑像をつくり、素焼きする。これが雄型になる。
- 型づくり: 元型に粘土を押し当てて雌型(凹型)をつくる。ふつう前後2枚の合わせ型にする。複雑なものは3枚、4枚にわける。素焼きする。
- 人形の型抜きと焼成: 合わせ型のそれぞれに粘土を押し当ててパーツをつくり、接着する。これを必要な分だけつくり、素焼きする。
- 絵付け: 絵の具で彩色をほどこす。
のような順番でつくられる。粘土をみずから掘り出して精製する場合は、その工程も加わる。くわしくは、たとえば「伏見人形の原型」(奥村寛純 編著、伏偶舎、1976年 リンク)などを参照のこと。
これらのうち、とくに元型づくりと絵付け(とりわけ面相書き)がもっとも重要で、これらでできあがる製品の価値が決まると言ってよい。年末年始やひなまつりなどの書き入れ時には、一家総出で人形づくりをおこなったが、お顔だけはその工房の主が描いた、などといった話は諸所で聞く(たとえば塩野徳五郎 ほか「相良家と相良人形」伏偶舎、1974年 リンク)。





































