米沢の土人形 Clay Dolls in Yonezawa

Some old clay dolls made in Yonezawa, Yamagata, Japan, are shown from my recent collection. Most of them were made by the Sagara family in the 19th century, and some might be made by Oyamada Kamezo in Shimo-Kosuge village.


古い相良人形

その1

#1 提灯をもつ男 高さ 8.5 cm

見た感じ江戸期はあるかというこの古い土人形は、山形県米沢市で相良(さがら)家の代々が江戸後期から制作している、いわゆる相良人形に該当する。山形県立博物館の収蔵データベースに類品の画像が2点掲載されていて、1個は「提灯持ち」(資料番号:6H003990)、1個は「火の用心」(資料番号:6H011104)というタイトルがついている。実際、後者の男がもつ提灯には「火の用心」と墨書きされているように見える。

同博物館の解説文によると、仮名手本忠臣蔵の登場人物、お軽の父親の与市兵衛(よいちべえ)を題材にした人形という。お軽が遊郭に身を売る契約を交わして得た50両を娘婿の早野勘平(かんぺい)に届けるべく帰宅する途中、夜道で強盗に襲われて命を落とす、その場面を描いたのだろう(たとえば日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー」の「仮名手本忠臣蔵 五段目 二つ玉の段」の解説)。この人物の提灯には「与」の文字があるので、もしこれが後書きでなければ、後代の人の解釈ではなく、確かに制作時からして忠臣蔵の一場面を描いた土人形だった、と推定できる。この男は、古い土人形にしては珍しく、口が開いて(空洞になって)いて、さらにちょっと前かがみになっている。まさに命を落とす直前の姿を写しとった、とも解釈できる。由来はともあれ、躍動感のある絶妙な造形は、さすが古相良と言える。

なおこれと対になる、早野勘平をモチーフにしたとされる、鉄砲撃ちの土人形も存在する(下の参考写真)。車偶庵・石井丑之助によれば、これはもともと仙台の堤人形がオリジナルで、イノシシと組になっていたものを、鉄砲撃ちのほうだけを米沢に移入(盗用?)した、ということだ(「石井車偶庵選集」p.48、車偶庵文庫、1974年 リンク)。いっぽう「提灯持ち・火の用心」のほうは、相良の独自型のようである(「土人形系統分類の研究」p.65、車偶庵文庫、1976年 リンク)。

参考写真: 「須加原コレクション200選 郷土人形にみる日本の美」(神奈川県、1987年)より転載した相良人形の「早野勘平」。高さ 12 cm。郷土玩具コレクターだった須加原満雄の2000点近いコレクションは、居住地だった神奈川県に寄贈され、現在、神奈川県立歴史博物館のデジタルアーカイブ・民俗部門で画像が公開されている。なお検索の際、コレクション名は須加原でなく「須賀原」でないとヒットしないので注意(データ入力時の誤記か?)。

その2

#2 鯛乗り恵比寿 高さ 8.8 cm

これも古い相良人形で、ガッツポーズのように右腕をあげた男が笑みを浮かべて鯛(とおぼしき大魚)の上に腰掛けている。男の握りこぶしには穴があいているので、当初は「釣り竿」が刺さっていたかもしれない。まるで大物を釣り上げたときの記念写真のようだ。経年劣化が多少みられるものの、絵つけはたいへんていねいで、とくに鯛は全体が金泥風の顔料で塗られていて、豪華な感じがする。

わたしの土人形あつめも、はじまってからかれこれ3年ほど経つが、見ていて一番和むのは、なんといっても江戸期から明治初頭ころまでの古い相良人形だ。こういう人形は何個あっても見飽きることがない。

下小菅人形・成島人形

その1

#3 春駒 高さ 12.0 cm

これは小山田亀蔵という人が、旧広幡(ひろはた)村の下小菅(しもこすげ)地区にて、明治末から大正年間にかけての10年ほどの期間つくった土人形で、愛好家が下小菅人形(または小菅人形)と呼んでいるものに該当するとおもう。「全国郷土人形図鑑」(足立孔、光芸出版、1982年)にほぼ同型の作品の画像が掲載されている。お顔が個性的で、なにか老成した画家の絵を見ているかのようだ。おとなり秋田県で菊沢陶造が昭和期につくった小坂人形と、どことなく共通する味わいを感じる。この時代を東北の片田舎で生きた人の人間味、といったものがにじみ出ているとおもう。

下小菅人形の特徴として、紫がかった独特の黒がしばしば指摘される(たとえば足立孔「全国郷土人形図鑑」でも言及している)。たしかにこの人形を見ると、黒色塗料が剥げた部分は、素地が紫色に染まっている。なにか特殊な塗料または塗り方を採用したようで、作者のこだわりが感じとれる。

その2

#4(左) 少女の坐像 高さ 10.2 cm
#5(右) 少女の坐像 高さ 12.0 cm

左は#3とおなじく下小菅人形と考えられる。ひなまつりで、内裏雛の周囲に添えられた人形ではないかとおもう。右の人形は産地が定かでないが、黒色塗料が剥げたところが紫色になっているところ、髪飾りが似ていること、全体の色づかいの共通性などから、#3、#4と同じ工房の作ではないかと推定する。ただし赤や青の塗料にツヤがないこと、そしてお顔の描き方などは、いわゆる下小菅とはやや異なるように見える。どことなく現代的で「かわいい」印象だ。底のつくりも異なる。右の人形は底に和紙が貼ってあるようだ。

やはり明治末から昭和初頭にかけて、下小菅の南隣に位置する成島(なるしま)地区にて、井上弘章という人がつくった土人形も知られていて、こちらは成島人形、または地元では「びったら人形」と言ったらしい(「米沢市史 民俗編」p.678、1990年 リンク)。当時の相良人形と比べると、つくりや絵付けの点で見劣りするが、値段が安かったのでそれなりに売れたという。

正直に言うと、わたしは小山田氏の人形、井上氏の人形、それと当時の相良人形との区別がつきかねる。そもそも前二者はほぼ同時期に、同じ広幡村でつくられた。公表されている文献や図録などでも、下小菅、成島、相良が混同されている可能性が否定できない。

近年、広幡地域に残る古人形の大規模な実地調査が、地元の有志の手でおこなわれた。それによると、

  • 成島人形は、下塗りをせず直接絵付けしている、底部の仕上げが粗い、など仕様が大胆
  • 下小菅人形は、紫がかった艶のある独特な黒い塗料の使用、顔の部分は繊細に描かれているのに対し、衣類などは相良人形に比べると絵付けが雑、など

といった特徴があるという(2016年11月5日付け米沢新聞の記事が農村文化研究所のウェブページに載っている)。ぜひ研究結果をまとめて、公表してほしい。

その3

#6(左) 布袋 高さ 10.4 cm
#7(中) 恵比寿 高さ 12.6 cm
#8(右) 大黒 高さ 10.5 cm

七福神の揃いの人形のうちの3体。前の所持者のメモ書きによると成島人形とのことだが、本当にそうなのかわたしには判断できない。これらがオリジナルの型なのかどうか、知識がないが、すくなくとも絵付けに関して言えば、力強い表情、全体の色彩の調和から、作者の非凡な才能がうかがい知れる。

やや古い相良人形

その1

#9 鞠で遊ぶ少年 高さ 8.7 cm

肩口まであろうかという大きな鞠で子どもが遊んでいる。「鞠持ち童子」「玉押し童子」と呼ばれる型が京都の伏見人形にあるが(奥村寛純 編著「伏見人形の原型」伏偶舎・丹嘉、1976年 リンク)、米沢の鞠はこれらにくらべるとかなり巨大化している。子どもも満足げだ。

江戸期の相良人形は白土(はくど)で下地塗りされていることが多い。実際、#1や#2の、いかにも古そうな相良人形は白土をつかっている。いっぽう明治になると、貝殻を原料とする胡粉(ごふん)をつかうケースが散見される(くわしくはこちらの記事)。上で示した鞠持ち(#9)は胡粉を使用しており、やや新しい時代の相良人形かもしれない。また明治末から大正期にかけてつくられたとおもわれる下小菅・成島人形(#3〜#8)も胡粉を使用している。

その2

#10(左) 瓶割り 高さ 5.4 cm
#11(右) 裃を着た子どもの坐像 高さ 5.9 cm

相良人形は小型の人形が多い傾向があるが、これらはとくに小さく、サイズは 6 cm 以下である。左は「司馬温公の瓶割り」の故事を題材としたもの。構図のバランスが良く、よくできているとおもう。白土で下地塗りされている。

右は子どもの坐像で、頭巾をかぶって、裃を着て正装している。子どもが大人の格好をする趣向はある種のファンタジーであり、かつ早く成長して立派な大人になってほしいという親の願いでもあっただろう。こちらは胡粉を使用している。

その3

#12 勉強する少女 高さ 8.0 cm

産地は定かでないが、少女の着物に相良人形のトレードマークである桜花文が描かれていること、山形県立博物館の収蔵データベースに類品(資料番号:6H003949)が掲載されていることから、これも相良人形ではないかとおもう。下地塗りの材料は胡粉。

見た目だけで男っぽい、とか女っぽい、などと即断することはできないが、なんとなくこの人形のお顔には、女性が描いたかのような柔らかさが感じられる。

「相良家と相良人形」(塩野徳五郎 ほか、伏偶舎、1974年 リンク)によると、相良人形5代目の清一(明治7〜昭和20)の息子、清は人形づくりにはほとんど関与せず、娘のチヱ(明治41〜昭和47)が相良人形の6代目を継承した。これが昭和9年のことだったが、これ以降も、面相だけは清一が手掛けた。

しかしチヱ作の人形がまったくなかったわけではない。「相良家と相良人形」に掲載されているチヱ作の人形の目(下の参考写真1)を見ると、今回紹介した「勉強する少女」の目と似ており、本作が6代目の遺作である可能性を示唆しているようにおもう。戦争の激化により相良家での人形制作が一時途絶えるのが昭和18年のことだったので、上の推測が正しければ、これは昭和10年代の作、ということになる。

出自は別として、こういう人形が実際に売られていたということは、いつの時代も、親は子どもに「勉強しろ」と有形無形の圧力をかけていたこと、そして国家への忠誠心を植え付ける軍国主義教育に、土人形が一役買っていた可能性をも示唆する。他の産地でも同様の土人形がつくられている(下の参考写真2)。

参考写真1: 相良チヱ作の人形のお顔部分。「相良家と相良人形」(塩野徳五郎 ほか、伏偶舎、1974年)より転載した。なお、今回「下小菅」と推定した「少女の坐像(#5)」も似た目をしている。ただ見ただけで古人形の作者を推定する、などという企ては、確度の点でやはり限界がある。
参考写真2: おそらく秋田の八橋人形。高さは 10.4 cm。底の部分に、昭和4年に入手した、と読みとれる所持者の墨書きが残っている。ちなみに、本文で紹介した「勉強する少女(#12)」はわたしの見立てでは相良だが、販売業者は八橋だと言った。この手の、読み書きを習う子どもの人形は、一定の需要があったとみえて、この時代、各地でつくられている。