小坂土人形 Kosaka Clay Doll
昭和前期〜中期に秋田県小坂町にて菊沢陶造(きくざわとうぞう)が製作した土人形である「小坂人形」を3体たてつづけに手に入れる機会を得た。
I obtained three Kosaka clay dolls in a short time, which were produced by Kikuzawa Tozo in the 1930s to 60s in Kosaka Town, Akita, Japan.
猫 Cat
冬の寒い時期に、火の落ちたかまどに入り込んで余熱であたたまり、お顔が黒く煤けて汚れてしまった猫のことを「竈猫(かまどねこ・へっついねこ)」とか「釜猫(かまねこ)」と呼び、冬の季語にもなっている。土人形界では花巻の釜猫が有名で、ひたいから鼻筋にかけて黒くなっているこのデザインも花巻人形のそれを踏襲したものだろう。顔の描き方とか彩色の仕方はお世辞にも「上手」とはいえないが、いかにも田舎の土人形といった風情にあふれていて、心が和む。作者の人柄、あるいは鹿角地方の土地柄がにじみでているようにおもう。
It was considered in Japan as a special fun to see a cat entering an unfired cooking stove with her face sooted in a cold winter day. The Hanamaki clay doll, Iwate, is famous for Kamaneko (sooty cat), and I guess this one is affected by the Hanamaki's design. The way of face drawing and painting is not very sophisticated, but it is full of flavors from a countryside in Akita. I think the creator's personality or the nature in the Kazuno district made this cat attractive.
子を抱く女 Woman with a Child in Her Arm
振り袖を着た若い女性が子どもを抱いている。前の猫と同様、お顔や着物の文様の描き方など、雑な感じが否めないが、それでいて全体が調和しており、なにか老成した画家の絵をみるかのような味わいを感じる。
A girl wearing a long-sleeved kimono holds a child. The rough coloring looks like an experienced painter's work.
牛乗り天神 Tenjin Riding on a Cow
日本古来の自然神と菅原道真を神格化したものとが融合してうまれたのが天神信仰とされるが、昭和末期以降の日本しか知らないわたしにはいまいちピンとこない。しかしすくなくとも昭和前期より以前には全国各地で数多くの天神人形がつくられ、子どもの健やかな成長をねがう親たちにとっての守り神のような存在だった。電気も水道もなかった時代ならなおさらだったろう。牛に乗った天神人形は比較的めずらしいが、やはり全国各地の産地でつくられている。
Belief in the Tenjin originated from Japanese primitive nature worship and connected to a popular movement to idolize Sugawara-no Michizane since the 10th century. In the past, parents respected the Tenjin doll that was believed to protect children from misfortunes. The Tenjin doll riding on a cow is relatively rare but was widely produced in Japan.
補足
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小坂人形の歴史はおおむね以下のとおり。まず作者である菊沢陶造の父、三蔵もまた土人形作家だった。三蔵は江戸後期に花巻で生まれ、秋田の鉱山で陶工(レンガ工)として働きつつ、明治5年(1872年)頃、いまの鹿角市瀬田石付近に移り住み、当地の土をつかって人形をつくりはじめた。型は三蔵の郷里、花巻の窯元から譲られたらしく、絵付けにも花巻人形の影響がみられる。地元では「瀬田石人形」と呼んでいるようだが、残存数が少ない(もしくは他産地のものと誤認されている)こともあり、日本の古人形愛好家にはほとんど認知されていない。瀬田石人形の創始には平賀正之丈(もしくは音之丞)なるもうひとりの人物の関与が指摘されているが、史料に乏しく詳細は不明。いずれにせよ、明治17年(1884年)に生まれた息子に「陶造」となづけたくらいだから、三蔵の焼きものづくりに対する情熱には並々ならぬものがあったにちがいない。
明治26年(1893年)、陶造9才のときに三蔵は亡くなり、瀬田石人形は一時途絶える。それから35年ほど経った昭和3年(1928年)、陶造は隣町の小坂町荒川に移って人形づくりを開始する。土は瀬田石から運び、型は父が残したものをもちいた(のちに型の種類を増やしたかもしれない)。これがいわゆる「小坂人形」で、昭和47年(1972年)に陶造が事故にあって廃業を余儀なくされるまでの40数年間つづいた。人形は北秋田地方を中心に流通した。とくに林業・鉱山関係者が信仰する「山の神」の人形は小坂独特のものとされる。
Tozo's father, Kikuzawa Sanzo, also produced clay dolls. He was born in Hanamaki, Iwate, and worked at a mine in Akita as a potter. In 1872, he moved to Setaishi, Kazuno, and started producing clay doll. The local people call it the Setaishi doll, but it is not widely known in Japan. The molds were given by a Hanamaki doll pottery, and Sanzo's doll looks like the Hanamaki doll. Another person, Hiraga Masanojo (or Otonojo), might be involved in the foundation of the Setaishi doll. Anyway, Sanzo was so enthusiastic a potter that he named his son Tozo, which means "creating ceramics" in Japanese.
In 1893, when Tozo was 9 years old, the doll manufacturing in Setaishi stopped because of Sanzo's death. 35 years later, Tozo started producing clay doll in Arakawa, Kosaka, in 1928, using the same clay from Setaishi and the molds his father left. The Kosaka doll continued for more than 40 years until 1972 when Tozo had an accident. The dolls were mainly sold in the North Akita district. In particular, the mountain god doll, which was respected by persons engaged in forestry and mining industry, was unique to Kosaka.
参考にした文献は以下のとおり:
- 鹿角市歴史民俗資料館 編「鹿角の土人形」(2020年)。
- 高橋正「八橋人形の歴史と信仰」(秋田県立博物館研究報告 24号、1999年)の注釈に小坂人形や瀬田石人形のことが記されている。
- 斎藤良輔 編「日本人形玩具辞典」(東京堂出版、1968年)。
- 俵有作 編著「日本の土人形」(文化出版局、1978年)の中の「土人形窯元系譜」(石井車偶庵)に小坂人形の歴史が数行記されているが、史料にもとづいた記述なのか、関係者への聞き取りやその伝聞によるものなのかは不明。他の箇所にも記述がある。
陶造は88才まで人形づくりをつづけた。「鹿角の土人形」によると、晩年の陶造は加齢のせいか「顔をうまく描けなくなった」と家族にほのめかしていたという。たしかに小坂人形の中には、顔つきがちょっと醜悪とさえ思えるほど崩れたものがある。これを稚拙な素人細工と一蹴するか、むしろこれが小坂人形の真骨頂であって、この泥臭さこそが味わいなのだ、と評するかは見る人しだいだ。
「猫」「牛乗り天神」の顔料のツヤはおそらく膠(にかわ)由来の自然なものだが、「子抱き」はややテカテカしている。「鹿角の土人形」によると、小坂人形のなかには顔料が剥げないようにニスを塗布したものがあるという(他の文献には「エナメル」を塗布したと書いてある)。他にも、目の周りのピンク色の彩色や、底をベニヤ板で塞ぐ細工など、陶造の土人形には独創的な意匠が多々見られる。農業のかたわら人形をつくったというが、いくら幼少期に父の作業を間近で見ていたとはいえ、技術の伝承は限定的であり、陶造44才のときにはじめたという土人形づくりには多くの試行錯誤をともなっただろう。こうした陶造の独創的な意匠・工夫が、製作開始当初からおこなわれていたものなのか、ある時期からやりはじめたのかは、小坂人形・瀬田石人形の歴史をひもとく上で興味あるところだ。
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「鹿角の土人形」に「猫」「子抱き」「牛乗り天神」と同型とおもわれる人形の写真が掲載されている。これら「鹿角の土人形」掲載の写真との比較でわたしが感じたこと:
まず「鹿角の土人形」では、底が板張りのものを小坂人形と定義し、底が板張りでないものは小坂人形ではないとしている節がある。これは定義というよりは仮説だとおもうが、この仮説が正しいかどうかについてはもうすこし慎重な検討が必要だろう。たしかに昭和中期の陶造の作品はもれなく底が板張りだったかもしれないが、陶造が人形づくりを志した当初は、まだ底に板を張るとか、目の周りをピンク色に彩色する、などの作風は確立していなかったとみるべきではなかろうか。
「牛乗り天神」については、当ブログ掲載品と「鹿角の土人形」の4点(瀬田石人形の No.53 と 122、小坂人形の No.10 および産地不明の No.122)とのあいだには類似点があり、極端なことを言えばすべて陶造作の可能性さえあるとおもう。同じ型で同じ土をつかったのだから似ているのは当然だが、筆のクセとか、胡粉や顔料の違いなど、なにか明確なちがいが見いだせるのだろうか。
「猫」(No.83)は目の周りがピンク色でなく、底が和紙でふさがれているが、やはり見た感じは当ブログ掲載品との類似点が多い。これも小坂人形の初期作品である可能性があるだろう。
なんらかの伝承をともなっているか、または明治前期につくられたという客観的証拠が認められるならば瀬田石人形(三蔵の作品)の可能性が高まるが、底が板張りでないから瀬田石人形だ、という基準はちょっと安易すぎるとおもう。