秋田あたりのかんすず Sake Warmer From Around Akita

高さ 15.3 cm 注ぎ口を含まない胴径 12.4 cm

この器は江戸後期から明治期に東北のどこかの窯でやかれたのはほぼ確実で、たぶん秋田とおもわれるが、くわしい産地は不明。わたしの見立てでは白岩じゃないかとおもう。

底部が素焼きのままなので、酒をいれて直火にかけて燗酒にするための器と考えられる。容量は3合半ほど。いろりのまわりに2、3人ですわって炉辺にこれを置いて、話などしながら一杯やったのかもしれない。釉薬はオリーブ色に近い暗緑色で、部分的にまだらになって蕎麦釉のような表情をみせる。端反りの口は波打っている。底部の3ヶ所の突起は、土鍋など、直火にかける器によくみられる細工だ。灰やおきの上に置いたときに、ひっかかりをよくして安定させる効能があったかもしれない。

This earthenware is very certainly from a pottery in the Tohoku district, Japan, and probably from Akita, but the exact birth place is uncertain. I think it was baked in Shiraiwa in the mid 19th century. This bottle would be a sake warmer placed over an open fire or hot ashes, because the lower part is unglazed. The volume is 600 ml or so, which would be enough for two or three people sitting around a hearth, drinking and talking to each other. The glaze is olive green in color, and shows a speckled texture in part. The top rim is wavy. There are three "feet" near the bottom, which are often seen in an earthenware that is placed over an open fire.

渋さ満点の古陶である。白岩焼というと青白い「なまこ釉」の印象が強いが、実はそれ以外にも黒釉や青磁(青瓷)釉などいろいろな釉薬があり、このような緑釉の器があったとしても不思議ではない。  A lovely old earthenware. A bluish namako glaze is best known in the Shiraiwa earthenware, but there were various glazes like this greenish one.
底部はおどろくほどきれいで、ほとんど未使用のまま退蔵されていたのかもしれない。果たしてこれが白岩の土なのか、わたしには断定できない。 The bottom part is very clean. It might have never been used on a fire. I can't judge it is a clay of Shiraiwa.

補足

  • 仙北地方や秋田市をはじめとする秋田中部地域や由利地方などでは、液体をいれる容器で口が細い徳利状のものをつい最近まで「すず・しじ」と呼んでいた(「秋田のことば」秋田県教育委員会、無明舎出版、2000年;「秋田方言」秋田県学務部学務課、1929年)。「すず」はすくなくとも江戸時代中期頃までは用例が見いだせる古語で、もともと錫製の酒器のことだが(たとえば「新明解古語辞典」第2版、三省堂、1987年)、東北の一部では明治期でもふつうに通用していたと考えられる。

  • 渡辺為吉「白岩瀬戸山」(1933年)に白岩焼勘左衛門窯(ハ窯)の産額表が掲載されている。このうち「かんすず」は5合と1盃(4合)の2種類があって、明治15年7月にそれぞれ50個ずつ生産されたことが記録されている。白岩のかんすずがどういう形状だったのかいまいち定かでないが、実際の容量は4合に満たないものの、本品のような器が「1盃入りのかんすず」として流通していた可能性はあるだろう。

  • おなじく「白岩瀬戸山」の復刻版にほぼ同じ形の器のカラー写真が掲載されている(下図)。「二瀧」の刻印があるので、山手瀧治(1840〜1906年)が白岩焼ニ窯(孫兵衛窯)でつくった代物であることはまちがいない。ニ窯は明治15年(1882年)に廃窯となったので、製作された年代は幕末から明治初期にかけてと推定できる(ただし「白岩瀬戸山」によると瀧治はその後も他の窯で作陶し、おなじ刻印を押したと言われる)。おなじような器を白岩以外でもつくっていた可能性は否定できないが、素直に考えれば、本ブログ掲載品を白岩焼でないとする積極的な理由は見当たらない。

  • 渡辺為吉「白岩瀬戸山」の復刻版(満留善、1979年)より転載した「青磁口付すず」の画像。口は波打ってはいないが、形は大変よく似ていて、底部に「足」がついているのも同じだ。
  • 中田達男「白岩焼」(「あきたの工芸」p.156、お宝発見ハンドブック〜工芸技術編、秋田県教育委員会、2007年)に以下の記述がある:

    白岩焼の最後を飾る名工山手瀧治(中略)は伝統的な海鼠釉をはじめ飴釉・黒釉・緑釉・青瓷など多彩に釉薬を使い分け、また形も瓢形・砧形・丸形・角形と変化させ、白岩焼の可能性を最大限に追求した名作を次々に生み出し、質、量ともに他の追随を許さない作品を残している。
  • おとなり山形県の大宝寺焼や新庄東山焼では土鍋を数多くつくっていて、たいがい底部は素焼きのままで、三つ足がついている(たとえば「大宝寺焼コレクション」文化遺産オンライン、文化庁山形県立博物館・民俗収蔵資料データベース、資料番号=6A008116 など)。この三つ足は、平らな床に置いたときにはぎりぎり接地しないので、一見飾りのようだが、なにか実用上の意味があるのだろうか。