太良鉱山の方鉛鉱 Galena from Daira Mine
世界遺産にも指定されている白神山地の秋田県側、藤琴川上流に位置する太良(だいら)鉱山産の方鉛鉱のかたまり。ごく少量の閃亜鉛鉱をともなう。鉱脈を充填する方鉛鉱の富鉱部を採取したと考えられるもので、自形の結晶面はほとんどみられない。しかし結晶はかなり粗粒で、最大径 2 cm に達するものがある。劈開面がピカピカ輝いている。付属したラベルによれば、この標本は昭和29年(1954年)に「300尺𨫤(ひ)上3 東1位 切上り 10 m」から採取された。
A piece of galena with minor sphalerite from the Daira Mine, Akita, that was located near the upper part of the Fujikoto River and at an entrance to the Shirakami Mountains listed as a World Heritage site. There are few automorphic crystals, probably collected from a galena-rich part of a solid vein. The crystal reaches 2 cm in size, showing shining cleavage faces. The label says that it was mined in 1954 at 10 m above the East 1 district of the third upper level in the 300-shaku vein.
太良鉱山は、能代市二ツ井から藤琴川をさかのぼること 25 km、藤琴の町からでも 15 km の深い山あいに位置するが、その歴史は古く江戸期以前にさかのぼる。古文書や口伝によれば、発見は大同年間(806-810年)とも文永年間(1264-1275年)とも言われる。確かな稼行記録があるのは寛文期(1660年頃)以降で、当初は藤琴川沿いから七枚沢方面を盛んに手掘りし、主として鉛を生産した(銀や銅も掘った)。ただ当時の旧坑はほとんど埋没し、いまでは痕跡が見られる程度で、 詳細な稼行範囲は明らかでない。江戸後期は秋田藩の直山(じきやま:直営の鉱山)で、その鉛は二ツ井近郊にあった加護山製錬所に送られて銀の製錬(南蛮吹き)にもちいられ、秋田藩の財政を支えた。明治になって古河が経営してからは、藤琴川の上流側に新しい坑道(新さく坑)を開き、近代的な開発をおこなった。20世紀になって増した亜鉛需要は鉱山の価値を高めた。国内では中規模クラスの鉛・亜鉛鉱山だったが、昭和33年(1958年)の水害が引き金となって閉山した。
It was about 25 km from Futatsui (Noshiro City) and 15 km from Fujikoto to the Daira Mine along the Fujikoto River. According to tradition, the finding went back to 1260s or even to 800s. Reliable records exist since 1660s, when Daira produced lead and some copper and silver by hand mining near the Fujikoto River and Shichimai-zawa, though the correct mining area is uncertain because old tunnels have been buried. In the early to mid 19th century, the mine was managed by the Akita Clan. Daira's lead was sent to the Kagoyama Refinery, Futatsui, and used for silver production that brought the governor's benefits. After the late 19th century, the Furukawa Company owned the mine and opened a new adit. Increasing demand for zinc enhanced the mine's value in the 20th century. It was a medium-sized lead-zinc mine in Japan, but closed in 1958 because of flood damage.
近代化後に開発された鉱脈について言えば、一本一本の厚みは平均 15 cm 程度の細脈が多かった。方鉛鉱や閃亜鉛鉱を主体とし、石英等の脈石が少ないのが特徴で、多少の黄銅鉱、黄鉄鉱をともなった。方解石、菱マンガン鉱、重晶石もみられた。太良鉱山の鉱物標本、とくに方鉛鉱は、結晶サイズの大きさから、国内の著名なコレクションにはかならずと言っていいほど含まれる有名品であるが、いまではほとんど市場に出回ることがない。閉山から70年近くたった今となっては貴重なサンプルである。
The veins opened after Furukawa's modernization were mostly slender with a thickness of 15 cm in average. It was characteristic that the vein was mainly composed of galena and sphalerite and few gangue. There were some chalcopyrite, pyrite, and also calcite, rhodochrosite, and barite. Mineral specimens, especially galena, from the Daira Mine are famous in Japan for big crystal size, but it is quite rare to see them in modern mineral market. After nearly 70 years have passed, even an ore sample like this is precious.
補足
おもな文献:
- 「亜鉛鉱鉱床調査報文」 農商務省鉱山局、1912年(太良鉱山の現地調査は1910年)。
- 「東北鉱山風土記」 仙台鉱山監督局、1942年。
- 伊藤昌介「秋田県太良鉱山鉛亜鉛鉱床調査報告 主として14号𨫤について」 地質調査所月報、Vol.1 No.4、1950年(執筆は1948年)。
- 「秋田県鉱山誌」 秋田県産業労働部鉱務課、1968年。
- 秋田大学附属図書館の「鉱山絵図絵巻デジタルライブラリ」に江戸期のものとおもわれる古絵図が掲載されている。
- 鉱山の歴史については、益子清孝「近世後期における太良鉱山の集落構成とその機能」(秋田県立博物館研究報告 第12号、1987年)がくわしい。
秋田県内にはかつて数多くの金属鉱山が存在したが、太良鉱山はなかでももっとも古い歴史を有する鉱山のひとつである。江戸後期、東北各地を旅した菅江真澄は、太良鉱山(当時は平鉱山)を訪問したときの記録を「しげき山本」に残している。その中の、愛宕山(鉱山から見て藤琴川の対岸にある山)を詣でたときの文に、
「・・・よぢつれて堂につく、遠き昔もありしところにや、大同のとしの鰐口鐸のありしを、盗人のとりいにしなど語り、なか昔の頃はひに、この平山にいしかねは湧くがこくほりにほりて、鉛のいたくふきいたして、栄へたりしをもかたりて・・・」(「藤里町誌」(1975年)より転記)
とあり、かつて当地に大同年間製の遺物があったことを示唆している。この紀行文にはほかにも数多くの坑口の名称や、当時の製錬のようすが記載されていて、興味深い。なお近年まで山神社に奉納されていた鰐口には「慶長16年(1611年)秋田銅屋久四郎吉次」の銘があり、秋田県の有形文化財に指定されている(おなじく「藤里町誌」)。
太良鉱山の鉱脈の晶洞にはしばしば方鉛鉱の巨晶がみられた。たとえば三菱マテリアル所蔵の和田標本には最大径 10 cm を超えるもの(番号 O-82)が収まっている。秋田大学鉱業博物館の前身にあたる列品室にはかつて径 13 cm の巨晶が陳列されていたが、残念ながら昭和16年の火災で焼失した(「秋田鉱山専門学校・秋田大学鉱山学部50年史」1961年)。「日本鉱物誌 改訂版」(原著 和田維四郎、増訂 神保小虎 ほか、1916年)には「時々きわめて大なる結晶あり。直径 16 cm に達す」とある。世界的にみても有数の産地とおもわれる。
太良の方鉛鉱には銀が比較的多く含まれているものがある。文献によって銀の含有量にばらつきがあるが、たとえば「日本鉱産誌 B 第1-b」(地質調査所、1956年)は粗鉱 1 トン中 77 グラムの銀が含まれると記載している。古文書によれば江戸初期は銀山だったというが(「藤琴銀山」の名で呼ばれた)、当時は含銀方鉛鉱の酸化帯が露出していて、そこから銀を採取したことが想像される。和田標本中に太良産の白鉛鉱の標本が1点あり、酸化帯の存在を示唆する。