置賜地方のすり鉢 Mortar from Okitama District

19世紀後半〜20世紀初頭 Late 19th to beginning of 20th centuries
口径 top width: 31 ∼ 32 cm / 高さ height: 17.5 cm / 高台径 bottom width: 10.5 cm

山形県南部、 旧米沢藩の領地だったあたりを置賜(おきたま)地方と呼ぶ。これはそこで焼かれたすり鉢。詳細な産地は不明だが、おそらく米沢市の小菅(こすげ)焼か、白鷹町(しらたかまち)の十王(じゅうおう)焼で、製作年代は明治〜大正期あたりだろう。

まず横から見るとシルエットが直線的で円錐形に近く、ふつう思い描くすり鉢より傾斜が急というかスリムな印象だ。大きさの割には底の「溜まり」の部分がせまいとおもうのだが、なにか実用上の利点があるのだろう。器全体に褐色の柿釉が薄くかかっている。そして縁の部分には黒褐色の飴釉が施され、さらに二重のくびれがついている。これは持ちやすさのためと、欠けやすいこの部位を補強する意味合いもあると考えられる。内面は櫛できれいに隙間なく溝がつけられている。たたくとカンカンいい音がして、いかにも頑強である。用の美というにふさわしい。

This ceramic suribachi (mortar) came from the Okitama district, Yamagata prefecture, Japan. It was probably made in the late 19th century by the Kosuge pottery in Yonezawa City or the Juo pottery in Shirataka Town. It features a conic shape with a linear side silhouette and a little bottom area, which I guess has some meaning when used. Decoration at the top edge with a lustrous dark brown glaze would also be useful. The inner part is finely engraved with a comb-like tool. The body is so hard that it sounds good when flicked by a finger.

長いこと死蔵されていたとみえて汚れがこびりついている。高台の一部が削れているのは以前紹介した秋田県仙北地方のすず(徳利)とおなじだ。

小菅焼も十王焼も米沢市の成島焼の影響をつよく受けている。このすり鉢に関して言えば、口縁部の飴釉の色合いはまさに成島焼のそれだし、二重のくびれの装飾は前の記事で紹介した灯火台にも施されていた。成島焼の歴史についてはその記事を参照のこと。

「米沢市史」(1990年)によると、小菅焼は天明年間(1785年前後)に成島にほど近い旧上小菅村落合にて開窯した。落合焼ともいう。成島でやきものの焼成に成功したわずか数年後で、技術を獲得した米沢藩が生産拠点を拡大したものと推測される。一時中断していたが明治10年(1877年)再興し、昭和30年(1955年)頃までおもに日用品を焼いた。とりわけすり鉢は主力製品のひとつで、「櫛目が硬くて崩れず、成島焼よりすぐれていると人気があった」らしい。時代的にみてもこの「再興小菅焼」のすり鉢である可能性はじゅうぶんある。

十王焼は白鷹町十王にあった窯で、板垣英夫「山形県のやきもの」(1981年)によれば、文化6年(1809年)に上小菅の住人源蔵が当地に築窯を願い出たのがはじまりというから、小菅焼からの技術伝播が推察される。そうだとすると系譜としては成島→小菅→十王の順であり、江戸後期、陶器需要の高まりをうけて良質の陶土が出た地に窯をのれん分けした(または新たな事業者が参入した)ことが想像される。十王焼は昭和22年(1947年)頃までつづいた。製品はやはり生活雑器が主体で、とくにすり鉢は「他のものと比べて目立てが丈夫で生涯利用できることから、嫁入り道具の一つとして喜ばれた」らしい。

本家の成島焼でもすり鉢はつくられただろうが、置賜地方ですり鉢といえばやはり小菅焼と十王焼が有名のようである。山形県立博物館の民俗資料データベースに掲載されているすり鉢8点のうち置賜地方のものが5点あり、3点が小菅、2点が十王である。これらは形や色合いが似ている。とくに縁の部分に飴釉が施されているタイプは小菅にも十王にもみられ、写真からではほとんど判別不可能だ。

このように近接する(といっても小菅と十王は国道287号に沿って 35 km ほど離れている)窯場の製品が似通っているという現象は秋田の白岩焼と楢岡焼とか、兵庫の三田焼と王地山焼など諸所にみられる。現代の目で見ると、どっちが本家でどっちが真似たとか商標がどうのとか、なにかさもしさを感じとってしまうが、150年前の人々の意識は実際どうだったのだろうか。むしろ技術の交流があったことに加えて、特定の地域で多くの人々の記憶に刻み込まれるような共通のデザインをお互い暗黙のうちにつくりあげる(たとえば冷蔵庫は白、テレビは黒とか)、という共存共栄的ブランディング戦略があったのではないかとおもう。

The Kosuge and Juo wares were influenced by Narushima that was the first pottery in Okitama district founded by Uesugi Yozan in about 1780. The dark brown glaze shows the distinguished Narushima's color. Kosuge is located close to Narushima, and the pottery began soon after Narushima and continued until 1955 with some closed period in the mid 19th century. Suribachi was one of the main products, having a reputation of being stronger and better than Narushima wares. The Juo pottery worked from the beginning of the 19th century to about 1947. As a villager in Kosuge participated in the pottery's foundation, Juo is considered to have relation to Kosuge and also Narushima. Juo's suribachi was also renowned for its quality, and it was used as a bridal trousseau. Some pictures of Kosuge and Juo's suribachi can be seen at a folklore database of Yamagata Prefectural Museum.

質実剛健の名を体であらわしたかのようなすり鉢で、使い勝手もよさそうだ。こういうので枝豆をつぶしてずんだ餅をつくったり、とろろ汁とかつくったんだろうか。

参考文献