佐渡の金銀鉱石 Gold-silver Ore from Sado

Aikawa, Sado City, Niigata Prefecture, Japan(新潟県佐渡市相川)
Width: 55 mm / Weight: 54 g

先日、古道具屋で明治時代の鉱物標本を多数入手したが、これもそのうちのひとつ。佐渡・相川産の金銀鉱石と断定してよいとおもう。

佐渡金山は江戸期から昭和期にかけて莫大な金・銀を日本にもたらし、とくにこれら金や銀そのものが貨幣として機能した頃の日本の財政を支えた。坑道の総延長は 400 km、最深部は海面下 530 m にも達し、鉱脈を追い求めて、ともかく万難を排して堀りに掘ったヤマだった。佐渡の金銀鉱脈は、形成時には実はもっと「上」にも存在したのだが、佐渡島が隆起したことにより浸食され下流に流されてしまった。そのうち金や銀を含む部分は比重が大きいので、遠くまで流されずに相川地区の浜辺にまとまって堆積している。冒頭の写真はそうして形成された鉱石の標本で、地元のことばで「浜石」と呼ばれているもの。川の流れや波浪でもまれているので角のとれた礫(れき)になっている(浜石の形成過程について後述)。

黒い縞状の部分は輝銀鉱(正確には針銀鉱)で、その中に自然金がぽつぽつと埋まっている。金の粒はごく小さいものだが、礫がごろごろしているうちに表面の粒は肉眼でも確認できるくらいに押し延ばされている。金の展性は相当なもので、1 グラムの金をたたいて伸ばせば畳 1/3 枚分にもなるそうだ。

This gold-silver ore was one of the Meiji-era mineral specimens that I purchased the other day. It is undoubtedly from Aikawa, Sado Island. The Sado Mine produced tons of gold and silver from the Edo to Showa periods, contributing to Japanese national finance in the past. The miners dug and dug for gold ores so that the total length of the mine galleries reached 400 km, and the deepest part was 530 m under the sea level. Sado's gold veins had once extended more upward. The upper part was eroded because of elevation of Sado Island, and the rocks including gold and silver were deposited in the shore of Aikawa. This specimen is such a "beach pebble" (hama-ishi in a local word), becoming rounded after a long way from the mountain. There exist several gold particles in the black argentite bands. Gold particles are so minute, but some of them are pressed onto the surface to be large enough to be seen.

拡大写真。表面が黒く汚れているが、白っぽく光るのは自然金(正確には金と銀の合金でエレクトラムとも呼ばれる)である。

相川の浜石は1920年代から本格的に採取された。品位はさほど高くないが、坑内掘りより低コストであり、当時佐渡鉱山を所有していた三菱鉱業にそれなりの利潤をもたらしたと考えられる。現在も相川地区の海岸近くを数メートル掘ればまだ多少の浜石が埋まっているという。このところ金価格も 1 グラムあたり 1 万円を超えており、掘ったらけっこうな儲けになるんじゃないかと想像するが、現在は市街地になっていて建物がたっており、いまさらそれをどけて掘り返すのは採算が合わないようだ。

The hama-ishi began to be mined from 1920s. As the cost was lower than underground mining, Mitsubishi Company that owned the Sado Mine at that time would have gained considerable profits. There still exist some amount of hama-ishi in the seaside of Aikawa. I think digging up again will be profitable because gold price is increasing nowadays. However, a town has been built on the deposit area, and it is not so easy to move every building. 

これは別の浜石。浜石としてはこの程度のものが普通品で、最初に示したものは例外的な上鉱である。似たような礫はもっと小さいのも含めてぜんぶで5個あった。 There were five hama-ishi in the collection. This pebble is an average-class example. The one shown in the top is an exceptionally high-class gold-silver ore.

補足

  • 下の写真はこの標本のものと思われるラベル。明治38年(1905年)9月16日に恵与されたとある。この当時はまだ浜石の採取は大々的にはおこなわれておらず、ちょっと探せばけっこう拾えたんだろう。タイトルにある「Argentit (Glaserz, Silberglanz)」はドイツ語で、すべて「輝銀鉱」を意味する。

    The photo below shows an old label of "Argentit (Glaserz, Silberglanz)". The date is September 16th, 1905. Japanese mineralogists at that age used German.

    この標本のものと思われる古いラベル。
  • 佐渡相川の金鉱床は1601年に発見され、すぐに幕府の管理下におかれた。相川地区の北東 2 km ほどの地域に、道遊(どうゆう)脈、青盤(あおばん)脈、鳥越(とりごえ)脈など多数の鉱脈が存在した。含金銀石英脈で、銅も伴った。道遊脈は平均脈幅 10 m、最大 35 m、江戸期に掘られた鉱石の金品位はトンあたり 400 g あったというから驚異的である(以上、「日本鉱産誌 B 1-a」地質調査所、1955年「日本の鉱床総覧 下巻」日本鉱業協会、1968年、など)。道遊脈の露頭部の採掘跡は「道遊の割戸」という観光名所になっている。佐渡鉱山は1989年の閉山までに金 78 トン、銀 2330 トンを産出した。この量はその後鹿児島県の菱刈鉱山に抜かれたが、それでも江戸・明治期の日本を支えた最重要鉱山だったと言えるだろう(以上、ゴールデン佐渡「史跡 佐渡金山」のページなど)。

    Gold-silver veins in Aikawa, Sado, were found in 1601, and soon became under the control of the shogunate government. There were Doyu, Aoban, Torigoe, and other veins in the mining area, located 2 km north-east of Aikawa town. They were quartz veins including gold, silver, and some copper. The thickness of the Doyu vein was 10 m in average and 35 m at the maximum, and produced ores in the Edo period that included 400 g gold per ton. The outcrop of the Doyu vein is a monumental heritage, called "Doyu-no Warito". The Sado Mine produced 78 ton gold and 2330 ton silver until the closure in 1989.

  • 浜石の形成について「江戸時代は製錬法が未発達で、掘った鉱石のうち品位の低いものは捨てていた、そうした石が川に流されて浜辺に堆積した」という意味のネット記事をちらほらみかけるが、たった200〜300年でこれだけの丸い礫ができる訳がないので、たぶんだれかのデマカセが流布したものである。何万年という時を経てつくられたとみるべきだろう(浜石の形成過程についての再考は後述)。

  • 浜石の存在は古くから知られていたが、江戸〜明治期はもっと品位の高い鉱石がヤマから産出したので、ほとんど見捨てられていた。河口や海岸の砂礫から砂金をとる「浜流し」はおこなわれていた。金銀鉱石として浜石が採取されるようになったのは大正10年(1921年)頃からで、とくに日本が戦争に突入していった昭和12年(1937年)頃から大々的におこなわれるようになった。総量 100 万トン、鉱石 1 トンあたり金 3.5 グラム、銀 70 グラムの品位があったというから、当時坑内掘りで得られる鉱石と遜色なかった。昭和17年(1942年)頃までおこなわれた浜石採取だったが、海岸付近の民家の立ち退き、地下水脈の枯渇による生活用水不足など、町の犠牲あっての国策的事業だった(以上、「佐渡相川の歴史 通史編 近・現代」相川町、1995年、など)。

  • 佐渡市が運営している「佐渡を世界遺産に」というページ内の「古写真ギャラリー:相川の町と周辺地域」に、浜石採取のようすを記録した写真が掲載されている。海岸に沿って、海面下 2 〜 3 m まで根こそぎ採掘したようだ。佐渡鉱山の概要も記されている。

  • 佐渡鉱山の鉱物標本はいまではほとんど目にすることがない。金山だったので鉱石の持ち出しが厳しく制限されたことに加えて、鉱山の最盛期が江戸〜明治期と古く、当時の標本の多くが散逸しているのも大きい。

補足 2: 浜石の形成について

  • 浜石の生成プロセスについて、南部秀喜は著書「佐渡鉱山標本」(南部鉱物標本解説、茨城県自然博物館、1996年)の中で以下の3つを比較検討している:

    1. 金銀鉱脈の上部が侵食され、下流に流され、浜辺に堆積した。
    2. 相川沖の海底に鉱脈があり、その残骸が波浪で打ち寄せられた。
    3. 江戸時代の採掘鉱石のうち低品位のものが捨てられ、それが波にもまれて堆積した。
  • 南部は、まず2については、地質学的な観察事実から考えられないとしている。つぎに1についても、以下の観察事実から否定する:

    • 堅硬である石英脈が、100万トンも自然に崩壊・流失するとは考えられない。
    • 自然に風化したものならば、硫化鉱物は酸化流失し、酸化鉱の砂礫になるべきだが、実際の浜石は、初生そのままとおもわれるくらいの新鮮さを有し、まるで坑内から採掘したものかとおもわれるほどである。
    • 相川の人々は家屋の屋根に酸化された含金銀石英の礫を重しとして置いて、それを誇りとしているが、むしろこれが鉱脈露頭部が崩れて下流に流されたものである。
  • よって南部の説は3であり、採掘鉱石のうち金品位の高い上鉱だけを選別し、残りを浜辺に捨てたものが、波浪で再堆積したもの、と断定している。

  • 南部は三菱鉱業の技師で、佐渡鉱山の各所に出入りして、鉱脈や産出鉱石をよく観察していたから、その説は尊重すべきである。が、いくら冬の日本海の波浪が激しいとはいえ、たかだか200〜300年で石英の円礫層が形成し、さらにその上に民家が立ち並ぶということがありうるのかどうか、相川に行ったことさえないわたしではあるが、疑問である。