渋江人形 Shibue Doll

19世紀末〜20世紀はじめ 高さ 73 mm 幅 78 mm
Late 19th century to beginning of 20th century, Height: 73 mm, Width: 78 mm

ふくよかなほぼ裸の子どもが赤いだるまを掲げている。実にユーモアに富んでいて、心が和む。このブログではたびたび古い土人形(粘土を成形して素焼きし、装飾を施したもの)を紹介してきたが、この小品はおがくずを練り固めて成形した練人形で、やや洗練された感がある。山形県立博物館の収蔵資料データベースにほぼ同じ品があり(資料番号:6H011317)、明治期から昭和初期にかけて山形市内でつくられた渋江人形であることがわかる。実際、この人形は山形市内の業者から手に入れた。

A chubby almost naked boy holds up a red daruma doll. It is full of a sense of humor. I have shown some old clay dolls in this blog. This one is made of not a clay but sawdusts kneaded with glue. It is doubtless a Shibue doll that was made in Yamagata City in the Meiji to the early Showa periods, because a similar doll is listed in the database of Yamagata Prefectural Museum's collection. I bought it at an antique shop based in Yamagata.

後ろ姿。
だるまのお顔もしっかり描かれている。
底は穴があいている。おがくずと糊を練り合わせたものを型にはめて、乾燥させ、表面に胡粉や顔料を塗ったものである。

渋江人形がいかに始まったかについては諸説あり判然としない。すくなくとも明治中期頃には、山形市下条町にて渋江長四郎なる人物が種々の人形をつくり、商売していたことは確かである。ここで紹介したような小型で低価格の練人形の他にも、張子や、もっと大型の雛人形や市松人形、木彫の人形なども販売したようだ。長四郎の孫の彦吉が跡を継いだが、こうした庶民向けの玩具をつくっていたのは昭和30年頃までで、その後は廃れてしまったという。

The history of the Shibue doll is not very clear. It is certain that in the mid Meiji period (the late 19th century), Shibue Choshiro created and sold various dolls in Shimojo-machi, Yamagata, such as small dolls like the one shown here, large dressed dolls, and wooden dolls. His grandson, Hikokichi, became a successor but quit manufacturing in the late 1950s.

補足

  • ネットで得た情報によると、渋江人形の起こりについては2説あるようだ:

    1. 京都で人形づくりに従事していた経験のある人形師(または仏師)の渋江長四郎が、安政年間(1855〜1860)に山形に移り住み、家業をはじめた。

    2. 幕府の家臣であった土岐備前守の子、虎之助友房が人形師の道に入り、諸国をめぐった末に山形に行き着き、安政元年(1855)、縁あって下條町の渋江家の人となった。同年生まれた長四郎は父友房のもとで人形づくりや木彫を習得、のちに東京で修行した。明治10年(1877)に帰郷し、以後人形づくりを生業とした。

    1を支持するのは山形県立博物館のデータベースの解説や「山形市史 別巻2」の「四章 8節 郷土玩具」(板垣英夫、昭和51年)、その他多くのネット上の記事(たとえば「山形県ふるさと工芸品・山形張子」など)である。

    2の説は「山形市商工案内」(山形実業新聞社、大正元年・1912年)「山形県事業と人物」(新山形社、大正15年・1926年)にくわしい記述がある。長四郎健在時の文献なのでこちらの説が確からしいと考えられるが、もしかすると商売の都合上、経歴詐称(?)していた可能性もなくはない。

  • 招き猫に関する情報サイト「ねこれくと」を運営されている辻井正則氏が2003〜2004年におこなった現地調査によると、基本的に1の説が有力で、安政元年(1855)に渋江家に生まれたのは熊吉という人物になっている。熊吉は木彫の作品を寺社に奉納しているので、それなりに技術を習得していた形跡があるが、基本的には商売人であり、渋江家での人形製作には関わらなかったという。したがって初代長四郎が明治初期から昭和初期まで一貫して渋江人形を支え続けており、2代目が孫の彦吉になる。彦吉は明治32年(1899)生まれで、昭和40年(1965)に没した。人形づくりは昭和30年代にやめてしまい、その後跡を継ぐ者はいなかった。なお長四郎の活躍期と孫の彦吉の活躍期とのあいだにややギャップがあり、長四郎が相当長寿で晩年まで壮健であったことになるが、長四郎が何歳で何年に亡くなったのかは不明である。以上は関係者への聞き取りや現地で入手した資料に基づいているが、これらも依然として齟齬がある可能性がある。

    友房が人形師(または仏師)を志して諸国行脚していたときの号が長四郎で、山形で生まれた子どもの熊吉もおなじく二代目・長四郎を名乗り、父子ともども人形作りをおこなった、というのが自然ななりゆきのように思えるが、何分むかしの話で人々の記憶も薄れ、謎は謎のままである。

  • 木戸忠太郎「達磨と其諸相」(丙午出版社、昭和7年・1932年)によれば、この「だるまかつぎ」は京都の御所人形にも類品があるようで、それを模したものらしい。基本的に渋江人形は、京都や東京の「都会的な」趣味を反映していて、東北の郷土人形という観点ではやや低い評価に甘んじているようにおもえる。

  • 小池澄三「奥羽六県営業案内」(大正5年・1916年)には下に示すような広告が掲載されている。写真が白黒で詳細はあきらかでないが、郷土玩具的な練人形や張子の他、大型の「美術人形」も売られている。各地の展覧会に出品しており、販路も広かったとおもわれる。住居兼工房が下条町にあり、店舗が旅籠町にあったのだろう。昭和3年(1928年)に出版された「奥羽六県営業銘鑑」に掲載の同様の広告には、旅籠町の屋号は「渋江人形店」となっている。人形製造は昭和30年代に廃れたが、この人形店自体は近年まで盛業だったようだ。

  • 1910年代の渋江人形の業態をしめす広告。