尾去沢鉱山のなるみ金鉱 Narumi Gold Ore from Osarizawa
尾去沢鉱山の一部の鉱脈の浅部には上の写真のような緑泥石と赤鉄鉱を主体とする鉱石がみられ、金鉱石として採掘された。現地では「なるみ鉱」とも呼ばれ、尾去沢の鉱脈中もっとも金に富んでいたという六月ヒ(ヒは金へんに通で鉱脈のこと)では 1 トンあたり 10 〜 20 グラムの含金があった(「秋田県鉱山誌」より)。なるみ鉱は一種の輪鉱(いくつかの鉱物が同心円状に沈殿した鉱石)とされていて、この標本も切断面を観察すると、緑泥石の針状微結晶を主体とする部分の周囲に赤鉄鉱や黄鉄鉱が沈殿し、最後に厚さ 5 mm 弱の石英層が覆っているのがわかる。金粒がどこかにあるはずだが、なるみ鉱中の金はせいぜい径 0.03 mm 程度の微粒であるとされており(堀純郎および椎川誠の論文より)、黄鉄鉱や黄銅鉱とのちがいも不明瞭なこともあいまって、わたしにはみつけられなかった。
There were chlorite and hematite-rich "narumi" gold ores at the shallower part of some copper deposits in the Osarizawa Mine. The gold content of narumi ore was 10 to 20 g per ton at the Rokugatsu vein that was most richest in gold in Osarizawa. Narumi was a kind of ring ore. The specimen in the above photo is sliced at the bottom, where quartz, hematite, and pyrite precipitate over a green chlorite-rich part. It is difficult for me to find gold particles, because gold in narumi ore is generally as small as 0.03 mm and is apt to be mistaken as pyrite and chalcopyrite.
尾去沢鉱山は江戸初期は金山として稼行され、当時は西道(さいどう)金山の名でよばれた。その頃採掘していた鉱石も「なるみ鉱」だったと考えられるが、光学顕微鏡でようやく視認できるほどの微細な金粒を当時の山師がどのようにして見出し、これを金鉱石と判断したのか謎である。昭和15〜18年頃に尾去沢に出張勤務していた三菱鉱業技師で鉱物研究家の南部秀喜もこの点を疑問としていて、露頭部の風化したなるみ鉱中に大粒の金が二次的に生成していた可能性を指摘している(「南部鉱物標本解説」)。
西道金山の北隣に位置する白根(または小真木)金山でもおなじ江戸初期に金を産出したが、こちらは金を含んだ黒鉱が風化した土鉱だったようである(渡辺万次郎「鉱山史話 東北編」)。西道、白根等の諸鉱山はかなりの金を南部藩にもたらした。江戸中期の南部藩士伊東祐清は著書「祐清私記」の中で「慶長七年の春の頃より堀られければ、土百目に金四五十目より七八十目を限り出る」とか、「慶長九年の夏の頃は、みよしと言う小麦あるいは火石・大豆ほどの金入り混じり樋にもかけず直に俵に入るる」ほどの大盛況だったと国の誉れを喧伝している。こうした記述はあきらかに誇張に満ちているが、ともかく江戸初期の鹿角地方がゴールドラッシュに湧いたのは確かで、その一因に「なるみ鉱」の発見が関与したのかもしれない。
緑泥石・赤鉄鉱質の金鉱は、尾去沢から南西に直線で 35 km ほどに位置する阿仁鉱山でも採掘された。銅鉱脈が枯渇して休山中だった昭和8年(1933年)、管理を委ねられていた古河鉱業林業部が二十四孝鉱区山頂付近にこの金鉱を発見し、鉱山の命脈が保たれた逸話がある(「秋田県鉱山誌」)。椎川誠によれば、阿仁の「富鉱部においては肉眼にても認めうる程度の金粒を伴うこともあ」ったようだ。その他、「日本鉱産誌」には大葛鉱山や北平鉱山(ともに尾去沢の南西 5 km ほどにあった鉱山)にも同様の金鉱石があったとの記述があるし、木下亀城「原色鉱石図鑑」は同じ秋田県内の荒川鉱山産の赤鉄鉱質金鉱の写真を掲載している。
Osarizawa was once called Saido gold mine in the early 17th century. I guess the miners at that time searched the narumi ore, but it is a wonder how they got to know that the chlorite-hematite-rich rocks contained gold even though the gold particles were so minute. Nanbu Hideki, an engineer of Mitsubishi Mining Company known as his private collection of Japanese minerals, thought that relatively large visible gold particles could be generated by a secondary process in the outcrop of narumi deposit. According to a literature in the 18th century, golds as large as wheat grains and soy beans existed in the deposits of Saido and another Shirane gold mines, though such expressions are usually too exaggerated. Gold ores similar to narumi were also found in the Ani, Arakawa, and Okuzo Mines in Akita prefecture. The finding of narumi-like gold ore in the Nijushiko district in 1933 caused the revival of the Ani Mine that was about to be abandoned. The biggest golds in the Nijushiko deposit are said to be visible with the naked eyes.
補足
本文で参考にした文献の一覧:
- 「秋田県鉱山誌」(秋田県、1968年)。
- 堀純郎「尾去沢鉱山におけるナルミ鉱(金鉱)について」(地質学雑誌、47巻、560号、1940年)。鉱石の特徴についてくわしく記述している。
- 椎川誠「秋田県阿仁鉱山二十四孝金鉱床の研究」(秋田大学学芸学部研究紀要、1輯、1951年)。「なるみ」の語はつかわれていないが、記述されている鉱石の特徴は尾去沢のものとほぼ同じである。
- 南部秀喜「南部鉱物標本解説」(復刻版、茨城県自然博物館、1996年)。
- 渡辺万次郎「鉱山史話 東北編」(ラテイス、1968年)。
- 「祐清私記(ゆうせいしき)」(翻刻: 「南部叢書 第3冊」南部叢書刊行会、1928年)。山芋に金粒がついていたという白根金山の発見伝説も記されている。
- 地質調査所 編「日本鉱産誌BIa 金・銀 その他」(1955年); 同 「日本鉱産誌BIb 銅・鉛・亜鉛」(1956年)。
- 木下亀城「原色鉱石図鑑」(増補改訂版、保育社、1962年)。
- 木下亀城「尾去沢鉱山」(地質調査所報告 119号、1937年)。緑泥石・赤鉄鉱質金鉱について記述があるが「なるみ」の語はつかわれていない。
「なるみ」なる語は昔の鉱山関係者のあいだでつかわれた通称だったと考えられるが、「その外観上」そのように呼ばれたらしい(秋田県鉱山誌)。語源は不明。浴衣の生地などにつかう「鳴海しぼり」という染め物があるが、その柄と関係があるのかしら。。。
秋田大学鉱業博物館所蔵の尾去沢産「ナルミ鉱」。
以前書いた記事。尾去沢鉱山の観光坑道の終点近くには江戸初期のタヌキ掘り(鉱脈に沿っていきあたりばったりに狭い坑道を掘りめぐらすような採掘法)の跡がある。緑泥石脈をたよりに手掘りしたようだ。