不老倉鉱山の銅鉱石 Copper Ore from Furokura Mine

I described a piece of copper ore that was collected from the Furokura mine, Japan, nearly a hundred years ago. Chalcopyrite crystals have mostly been changed to chalcocite probably because of secondary enrichment process. Mineral specimens from Furokura are now quite rare.


Furokura Mine, Kazuno, Akita, Japan (秋田県鹿角市 不老倉鉱山)
Size: 16.5 × 11 × 7 cm

秋田県北東部に位置する不老倉(ふろうくら)鉱山の鉱石標本。石英と緑泥石に富む鉱脈の晶洞に、黄銅鉱が多数結晶したもので、結晶サイズは最大で 3 cm に達する。黄銅鉱は全体的に青黒く変質している。元の結晶の形は保ちつつ、表面が輝銅鉱に変化しているようだ。輝銅鉱の仮晶(仮像)と呼んでも差し支えないが、変質の度合いは完全でなく、中心部には黄銅鉱成分が残っているようにおもわれる。

最初の黄銅鉱がどのような結晶面をもっていたかは、いまひとつ定かでない。正四面体の各面をさらに三分割したような凸面体(十二面体)の一部があらわれているように見える箇所があるが、断定できない。「耳付き双晶」に似た結晶も見られる。

これと同じような銅鉱石は、近隣の尾去沢(おさりざわ)鉱山でも産出した。とくに方鉛鉱後の輝銅鉱仮晶、いわゆるハリス鉱(Harrisite)は、他ではあまり見られない珍品で、和田標本(三菱マテリアル所蔵)などの古い鉱物コレクションにはたいてい収まっている。

別の角度から見た画像。結晶の表面はざらざらしている。
標本の側面。紫色に輝く部分は斑銅鉱(いわゆるピーコック・オア)だろう。
標本の裏側。黄鉄鉱に加えて、緑泥石とおぼしき緑色で細粒の鉱物がみられる。不老倉鉱山の銅鉱脈は、緑色凝灰岩中でとくによく発達していたという。この標本からもそのような産状が推察できる。

不老倉鉱山は、鹿角市大湯地区から安久谷(あくや)川に沿って 10 km あまりさかのぼった、いまではツキノワグマが闊歩するような奥羽山脈の奥地にあった。鉱床は江戸期から知られ、南部藩の管理下で銅を産出した。明治20年(1887年)に古河が鉱業権を得てからは、鉱山開発の近代化がすすみ、新しい鉱脈の発見もあいまって、国内でも有数の規模の銅山に発展した。最盛期の大正6年(1917年)頃には従業員数3200名、鉱山町の人口は1万人にも達した。しかし景気の悪化と鉱脈の枯渇は、鉱山を急速に衰退させた。昭和2年(1927年)、古河は鉱山の業務を休止し、人々の多くは不老倉の町を去った。その後、経営者が変わり再興の努力がつづけられたが、往時の繁栄は二度と戻らなかった(以上、斎藤長八「不老倉鉱山誌」など)。

不老倉産の鉱物標本というと、方解石がもっとも有名である。とくに長さ 10 cm に達する矢筈形(あるいは魚の尾びれ形)の双晶は、日本国内はおろか、世界でも類例の少ない珍品である(下の写真)。しかしそれ以外の結晶標本は、意外にもほとんど知られていない。肝心の黄銅鉱の結晶標本は和田標本にもなく、お膝元の秋田大学鉱業博物館にでさえ1点あるのみである(同館のデータベースを参照)。鉱山の最盛期から100年以上経っていて、資料の散逸はやむを得ないことだとおもうが、ちょっとさびしい。

不老倉産の方解石。くわしくは以前書いたこちらの記事を参照のこと。

参考文献

  1. 「能代図幅地質説明書」、農商務省地質調査所、1894年(リンク)。日本で初めて出版された20万分の1地質図に付属する説明書。同省技師の中島謙造が執筆している。

  2. 「採鉱法調査報文」、農商務省鉱山局、1907年(リンク)。鉱山監督技師だった高橋雄治が明治39年(1906年)に東日本の諸鉱山を現地調査した後にまとめた報告書。

  3. 「本邦重要鉱山要覧」、農商務省鉱山局、1914年(リンク)。当時日本で稼行していた鉱山の生産状況をまとめたもの。

  4. 木下亀城「不老倉および四角鉱山調査報文」、地質調査所報告 No.107、1930年(リンク)。現地調査は昭和2年(1927年)におこなわれた。

  5. 木下亀城「不老倉鉱山の鉱床」、地質学雑誌 421号、564〜567ページ、1928年(リンク)。文献4の要約版。

  6. 「秋田県鉱山誌」、秋田県産業労働部鉱務課、1968年(リンク)。不老倉鉱山の概要は55〜56ページにまとめられているが、引用文献は明示されていない。執筆は当時高校教諭だった斎藤実則が担当している。

  7. 江戸期の鹿角地域の鉱山の歴史については「鹿角市史 第2巻 上」(鹿角市、1986年)の第4章、明治〜大正期については「同 第3巻 上・下」(1991年・1993年)にくわしい記述がある。主に安村二郎が執筆している。

  8. 斎藤長八「不老倉鉱山誌」、大湯郷土研究会、2000年。地元の郷土史研究家の著書。

補足

  • 不老倉は、発見当初には狼倉(おいのくら)と呼ばれていた。オオカミが棲む岩山の意。不老倉は後づけの名称で、縁起の良い漢字を当てたものである(斎藤長八「不老倉鉱山誌」)。「ふろうくら」「ふろうぐら」「ふろぐら」など、読みに揺れがある。

  • 「日本鉱物誌 第3版」(伊藤貞市・桜井欽一、原著:和田維四郎、中文館書店、1947年)には、

    不老倉鉱山の黄銅鉱は p を主とする四面体式の単晶多く、その径 5 cm に達するものあり

    と書かれている。また「不老倉および四角鉱山調査報告」(文献4、1930年)には、

    しばしば四面体式の結晶をなす。結晶には X および t を主面とする単晶のほか、ときとして耳付き双晶をなすものあり。その大なるものは直径 2 cm に達す

    とあり、十二面体式の黄銅鉱もみられたことがわかる(Xはおそらくギリシャ文字のχ(カイ)を意味するとおもう)。

  • 不老倉鉱山周辺の地図を下に示す。主たる鉱脈である本𨫤(ほんぴ)は平均脈幅 2 m で、走向方向に 1500 m、深さ方向に 300 m 連続した。当初は、この北部を古河が、南部を「細地(ほそじ)鉱山」と称して三菱がそれぞれ稼行していたが、明治37年(1904年)以降は、古河がこれらを一括して経営した。明治40年(1907年)に四十年𨫤、大正2年(1913年)に地森(じもり)𨫤を発見するなどして産銅が増し、明治末から大正中期にかけて不老倉の町は大いににぎわった。

    不老倉鉱山周辺の地図。国土地理院の地形図赤色立体地図(アジア航測株式会社)を重ねて、さらに文献4から読みとった坑口と坑道の位置を上書きした。坑道(黒線)は異なる高さに複数存在したが、ここでは主要な水平坑道の位置をおおまかに示す。主な坑口(□)には大切(おおぎり)坑(標高 467 m)、久七坑(標高 546 m)、細地坑(標高 624 m)があり、おおむね本𨫤に沿って開削された。本𨫤と大正𨫤のあいだには連絡道(大正立入)が地下に掘られた。
  • 「能代図幅地質説明書」(1894年)によれば、合併以前の細地鉱山の鉱石は、

    普通、外面黒色に腐〓したる黄銅鉱に、斑銅鉱をまじえ、石英、黄鉄鉱、赤鉄鉱等と混産す

    とあり、黄銅鉱はもっぱら変質して黒色を呈していたことがわかる(〓は解読できなかった文字だが、「錆びた」という意味だとおもう)。今回紹介した標本の特徴と一致する。いっぽう本𨫤北部を採掘していた不老倉鉱山の主たる鉱石は単なる「黄銅鉱」で、上記のように「黒変」を意味するような形容詞はついていない。

  • 細地・不老倉両鉱山の合併後に書かれた「採鉱法調査報文」(1907年)によると、不老倉鉱山の鉱石は、

    主として硫化銅鉄鉱、黄鉄鉱、赤鉄鉱にして、少量の斑銅鉱、石灰石(=方解石?)、輝鉛鉱(=方鉛鉱)、閃亜鉛鉱をはさむ

    とある。「硫化銅鉄鉱」とはあまり耳慣れない術語だが、この報告書の他の箇所では「黄銅鉱」の語が見られることから、なにかしらの意図があって使い分けていたのかもしれない。ともかくこの時代の不老倉には斑銅鉱が多少みられた。

  • 木下亀城が休山直後に書いた「不老倉および四角鉱山調査報文」(1930年)には、輝銅鉱や斑銅鉱の記載はない。そうした鉱石はこの頃にはすでに掘り尽くされていたのかもしれない。

  • 一般に、銅鉱床表層の酸化帯で溶脱した銅イオンは、地下水によってより深部に運ばれ、そこに存在する硫化鉱物中の銅以外の金属イオンと置き換わることで、銅がより濃集した富鉱帯を形成する、とされる(二次富化作用)。今回のケースでは、黄銅鉱(CuFeS2)中の鉄原子が銅で置き換えられて輝銅鉱(Cu2S)が生成しているので、

    5CuFeS2 + 11Cu2+ + 11SO42- + 8H2O8Cu2S + 5Fe2+ + 16H+ + 13SO42-

    のような反応が起こったと考えられる(参考: J. M. Guilbert and C. F. Park, Jr., "The Geology of Ore Deposits", W. H. Freeman, 1986)。なお今回紹介した不老倉の標本は、採取地の正確な位置や産状が明らかでないので、実際のところどういうプロセスを経て形成されたのかは、必ずしも明確でない。

  • 尾去沢のハリス鉱は、実際はデュルレ鉱(Djurleite)の仮晶であることがのちに判明している(N. Morimoto, "Djurleite, A new copper sulfide mineral", Mineralogical Journal, vol. 3, 338-344, 1962)。和田標本(三菱マテリアル所蔵)には多数のハリス鉱標本が収められているが、東京大学のデータベース上の名称はデュルレ鉱になっている。一般に、輝銅鉱(Cu2S)とデュルレ鉱(Cu31S16)の判別はむずかしい。今回紹介した不老倉の標本も、詳しい分析をしてみないとどちらの鉱物種なのか断定できない。

  • 不老倉鉱山のすぐ北隣、安久谷川の北岸に位置した来満(らいまん)鉱山産の標本。ヌケガラ状石英の表面に黒変した黄銅鉱がくっついている。くわしくは以前の記事を参照のこと。

  • 不老倉から南西に直線で約 20 km の位置にあった尾去沢鉱山の輝銅鉱標本。くわしくは以前の記事を参照のこと。