会津本郷焼の小皿 Aizu-Hongo Small Plate
青色顔料(呉須?)で富士山を背景とした景色が手描きされるこの小皿は、東京・有楽町の大江戸骨董市でみつけた。磁器というよりは半磁器に近く、表面の透明釉はやや白濁しマットな感じがする。見た瞬間なんともいえない温かみ、バランスの良さを感じ、店主にたずねたところ、会津本郷焼として仕入れたものだという。言われてみると、猪苗代湖の岸辺に松が生え、遠くに帆掛け船が浮かび、さらに向こうに白鳥の群れが磐梯山を背景に飛んでいるように思えてくる。小品ゆえに器の「あら」が際立たず、大げさかもしれないが、初期伊万里にも通ずる味わいを帯びているように思える。
A semi-porcelain plate decorated with a mat white glaze and a blue hand-drawn landscape picture was my purchase at the Oedo Antique Market, Yurakucho, Tokyo. I saw a well-balanced warm atmosphere in it and asked the dealer about it. He said it was from the Aizu-Hongo district, Fukushima. Then, the landscape seemed to depict pine trees near Lake Inawashiro where sailboats went around, and swans flying against a background of Aizu's sky and Mount Bandai. I felt a bit of Early Imari in this local porcelain.
文献によれば、旧会津本郷町(現在は会津美里町)には江戸初期から瓦焼きの窯があり、1650年頃からは陶器も焼いた。その後、磁器の原土がみつかり、1800年頃に焼成に成功。以後、本郷はその北隣に位置する川南(かわなみ)地区とともに会津藩による統制と保護のもと磁器の産地として飛躍的に発展した。戊辰戦争で大打撃を被ったが、県の支援もあってすぐに復活した。資料によると明治25年(1892年)には窯の数は39にのぼったという。その後「下りもの」の流入や、大正5年(1916年)の大火による被災で、食器類の生産は低落し、代わりに送電線用の碍子(がいし)が生産額の大半を占めるようになった。戦後も陶磁器生産は盛んで、現在も10数軒の窯元が存在する。
There was a pottery producing roof tiles in the Hongo district, Aizu-Misato Town, Fukushima, in the beginning of the 17th century, and it also produced ceramic wares since about 1650. A discovery of porcelain stones near Hongo in about 1800 made this pottery a big manufacturer of porcelain, controlled and protected by the local governor. The Boshin War in 1868 caused great damage, but the industry soon revived so that the number of kilns increased to 39 in 1892, according to a record. After a big fire in 1916, the business depended on the production of porcelain insulators rather than tableware. The ceramic production was active after the Pacific War, and today there are more than ten potteries in Hongo.
補足
参考文献:
郡山と会津若松とのあいだに鉄道が開通したのが1899年(明治32年)で、それまでは猪苗代湖をつかった水運が盛んだった。この小皿の絵が猪苗代湖を描いているとすれば、それより前の情景ということになろう。また磐梯山が大噴火したのが1888年(明治21年)なので、ひょっとすると山体崩壊する前の姿かもしれない。
江戸後期から明治期の会津本郷焼では素焼きの工程を省いた生掛け焼成をおこなっていた(たとえば「会津本郷焼の歩み」p.38)。
本郷での磁器焼成の成功は東北の片田舎にあっては画期的なことで、程なく周辺に磁器の産地が派生した。若松市内の蚕養(こがい)焼、猪苗代湖南岸に近い福良(ふくら)焼、須賀川市の勢至堂焼、長沼焼などが知られるが、これらは20世紀初頭までに廃絶した。専門家でないとこれらの産地の製品の違いを鑑別することはできないから、一般にはこれらをひっくるめて会津焼、または会津本郷系の磁器、などとと呼んだりする。
白くて壊れにくくて鮮やかな絵付けが施された磁器製品は、江戸後期から明治の人々にとってあこがれの存在であり、逆に旧来の陶製品は「土器」とか「粗物」などと低く見られた。したがってこの時代の陶器窯に関する記録は、とくに地方の小規模の窯に関しては乏しく、今となってはその詳細を知ることは難しい。こうした陶器の美的価値を再発見して保存、伝承を訴えたのが柳宗悦らによる民藝運動で、この支援に助けられた地方の窯は少なくない。そして民藝運動の功罪として、いまやむしろ旧来の陶器の価値が高くなって、伊万里以外の地方の磁器製品は安っぽい大量生産品としてさげすまれている(やはり江戸期の古伊万里は別格である)。会津本郷系の磁器などはその最たるもので、いまとなっては製品の全容や時代による変遷を知ることは難しい。結局のところ、われわれ民衆は、本質的価値を見失い、時代時代の流行に左右されて、時代時代の産物を称賛してはすぐに見捨てて、次の流行に追いすがるのである。