秋田の古い花立てと寺内焼について Old Flower Vases Made in Akita
これから紹介するやきものは、仏前に花を供えるときにつかう、いわゆる仏花器の類である。江戸後期から明治初期に秋田でつくられたものと推測する。
The flower vases shown below were used in a temple or in a religious situation, probably made in 19th-century Akita, Japan.
白岩焼? 仏花器
左の花立ては、古物商の言を信ずれば、秋田県仙北市白岩(しらいわ)地区で江戸期につくられたものだ。秋田で仕入れたと言ったから、すくなくとも秋田産である可能性は高い。ずいぶん煤けていて、長いこと油煙やお香の煙をあびつづけてきたことを暗示する。右は某ネットオークションで入手した。これも底に近い部分が汚れている。産地は不明。出品者は九州あたりのやきものだろうと言ったが、ちょっと疑わしい。
両者は形や細工がよく似ている。粘土の玉を無造作に押しつぶしてくっつけたような「耳」が特徴的だ。肩の部分の筋目、高台のつくりも似ている。器の上半分にかけられた釉薬は、左は茶褐色、右は深緑色を帯びているが、質的には似通っているとおもう。下部の鉄釉(赤釉)については、左はごく薄くしかかかっておらず、ほとんど無釉に近い(汚れていてよくわからない)。右は秋田のやきものにありがちな釉調である。
こうした陶製の仏花器は19世紀の日本ではありふれたものだが、全体からかもしだされる雰囲気からすると、どちらもおなじ産地の器のような気がする。どちらも白岩焼だと言われれば白岩焼のように思える。
The left one was sold as an old Shiraiwa earthen vase. The color indicates it was smoked by candle and incense long time. The right one was sold at an online auction. There is also a stain in the lower part. The seller said it might be from Kyushu, but I don't think so.
Both have many points of similarity such as the entire shape, uniquely shaped "ears", a line engraved around the body, and the bottom foot shape. The glaze's quality of the upper part looks similar, though the right one is slightly greenish. The lower part of the left one might be unglazed, while the right one is coated with a brown mud glaze that is characteristic in Akita earthenwares.
This kind of vases were common in 19th-century Japan. However, I felt the same flavor from both, which might come from the same pottery. If someone said they were from Shiraiwa, I would think so.
寺内焼 仏花器
秋田のやきものによくみられる鉄釉となまこ釉の掛け分けで、さらに黒釉を少量流しかけて景色をつくっている。形状は異なるが、耳の細工はすでに紹介した2点と似ている。手取りが重く、形もいびつで、陶工の技量はあまり高くなかったのではないかと想像する。
入手先の秋田の業者によれば、これはかつて秋田市の寺内(てらうち)地区でやかれたやきものである。ここは18世紀末に白岩の技術が伝搬して開かれた窯場で、製品は白岩焼と似た点が多い。渡辺為吉は自ら実見した寺内焼の器や陶片について、一般に胎土は砂がちで、
生地の色は灰色であるが、厚手ものには褐色に見ゆるものがある。概して白岩ものよりも、生地の色合は、淡いようである(白岩ものは、古いものの外は、黒ずんで見ゆる)。釉薬は、白、浅黄(なまこ手)、黒、飴、赤などがあり(中略)いずれも白岩ものに似てはいるが、赤釉は色合のすこぶる良いものがある
と記している(「白岩瀬戸山」、1933年)。また小野正人は「秋田県史 民俗工芸編」(秋田県、1962年)の中で、寺内焼の陶器(土焼)は、
砂目のあらいものが多く、茶褐色の胎土が多い。また、キメ細かに水簸(すいひ)したものは、ねずみ色の素地である。釉色は、鉄、ナマコ、アメなどを用い、鉄で絵や文字をしるしたものもある
と述べている(「陶工史」6節、169ページ)。この器には縁に大きな欠けがあるが、その破断面は灰色で、確かに上の著者らが記述する寺内焼の特徴と合致する。
Decorated with bluish-white and brown glazes separately, this vase looks like a typical Akita earthenware. The ears resemble the previous ones, but the entire shape is different. It is heavy and unbalanced, implying the potter might not be very skillful. The dealer said it was made in Terauchi, Akita City. Established in the end of the 18th century through the influence of the Shiraiwa pottery, Terauchi produced earthenwares that generally looked very similar to Shiraiwa. According to researchers' observation, Terauchi's clay is sandy and turns to gray after firing, which is paler than Shiraiwa, and glaze's colors are commonly white, bluish white (namako), black, lustrous brown, and so on. The present example's top rim is partly broken and exposes a gray color, which is the same as one of the characteristics of Terauchi.
補足
白岩焼には「花立」もしくは「花びん・花生」なる名称の製品があり、勘左衛門窯(ハ窯)では明治12年に88個、明治15年に35個つくっている(渡辺為吉「白岩瀬戸山」1933年)。仏花器は真ちゅうなど金属製のものがもっとも格式が高いと考えられるが、一般庶民からすると高価な代物だったに違いない。一方、やきものの花立ては比較的低価格で、それなりに需要が多かったとおもう。
同じく「白岩瀬戸山」には寺内焼の花立てに関する記述もあり、「安定のために、下部に扁平なる座」をつけたものがあったこと、とくに秋田市内の天徳寺というお寺の位牌場に、当時そのような花立てがいくつか残存していて、黒釉、白釉、なまこ釉がほどこされていたことが記されている。どういう形状の高台もしくは台座なのか詳細は不明だが、渡辺は風や地震で倒れないような工夫だろうと推測している。
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白岩でのやきものづくりが軌道にのった安永9年(1780年)、取立役だった宮崎善四郎は白岩にほど近い菅沢地区に新たに窯を開いた。その後、天明7年(1787年)に秋田市の旧秋田城跡にほど近い寺内(てらうち)地区に窯を移転した。これが寺内焼の起こりである(「白岩瀬戸山」より)。天明の飢饉の直後で、秋田藩としても新たな事業をおこして経済を立て直そうと、やきもの生産の拠点を城下に設けることを後押ししたかもしれない。寺内焼は明治はじめ頃までつづいた。当地では太白(たいはく)焼と呼ばれる磁器の生産にも成功した。前述の通り、白岩とはかなり質の異なる陶土だったようだ。
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雑誌「民藝」2003年6月号に掲載の白岩焼「佛花器」。高さ 13.2 cm。日本民藝館蔵。縦長の「耳」がついている。高台が大きめにつくられており、美観よりも安定性を重視しているようである。渡辺為吉が寺内焼の花立てについて述べた「扁平なる座」とはこういうのを指すのだろうか。
雑誌「民藝」(606号、日本民藝協会、2003年)より転載した画像。この号は東北のやきものを特集している。 -
寺内焼の窯跡の一部は1989年から90年にかけて秋田市が発掘調査をしていて、学術的な報告書が発行されている。今回紹介した品と似た「花瓶」も出土している。
「寺内焼窯跡」(秋田市教育委員会 他、1991年)より転載した画像。533は磁器、534は陶器の発掘品。寺内では磁器(太白焼)もつくった。高さはどちらも 12 cm ほど。 寺内窯の別の発掘品。基本的に器の下半分に鉄釉(赤釉)、上半分になまこ釉・灰釉がかけられている。534などの発掘品を見ると、本稿で最初に紹介した2点はどちらも寺内焼ではないか、ともおもわれる。 -
大仙市の楢岡焼の古い窯跡からも同様の花立てが発掘されている。楢岡では装飾を省いた、シンプルな「花瓶」も多く検出されているようだ。
大仙市教育委員会がおこなった楢岡焼の窯跡の発掘調査の報告書(「楢岡焼 楢岡焼大杉古窯からの出発」大仙市文化財調査報告書第15集、2012年)より転載した。 -
白岩焼の窯跡に関しては、一部愛好家による陶片の「盗掘」こそおこなわれているようだが、包括的な調査報告は、わたしの知る限り公表されていない。残念なことである。
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寺内焼は江戸後期から明治初頭の80年以上にわたって陶器のみならず磁器も生産した。また窯は秋田城下にほど近いところにあり、近隣の需要も大きかったはずだから、生産のピーク時には、むしろ白岩よりも出荷数が多かったかもしれない。にもかかわらず、現代において寺内焼の伝世品が少ないのには以下のような理由が考えられる:
- 明治維新後、急速に衰退したこと。楢岡では現在に至るまで、白岩でも明治30年すぎまで生産を継続したので、伝世品の数も比較的多い。
- 知名度が低く、無価値と判断され破棄された。白岩や楢岡の製品は日本民藝館にも収蔵されるなど、比較的評価が高い。
- 本当は寺内焼だが、白岩焼や楢岡焼と誤認されている。
1についてさらに言うと、秋田県下では、戊辰戦争(秋田戦争)で壊されたり焼き払われたりした家屋が少なくなかった。秋田市内では明治19年(1886年)に俵屋火事があり多くの民家が焼失した。太平洋戦争でこそ大規模な空襲はなかったが(土崎地区では終戦前夜に空襲があった)、江戸期の古いやきものがあまり残っていないとしても無理はない。
2については民藝運動でとりあげられなかったことも大きい。柳宗悦は寺内焼を知らなかった可能性があるとおもう。渡辺為吉が昭和初頭に窯跡を調査したときも、寺内にやきもの窯があったことを知らない地元住民がいたくらいである(「白岩瀬戸山」)。寺内は、大方の目からすれば、所詮白岩の「子窯」にすぎない、と映っただろう。基本的に生活雑器をやいた窯であり、美術的な評価は、稼働時から今日にいたるまで、ずっと低いままである。
3については、たとえば宮本康男は、黒っぽい飴釉がほどこされた白岩焼とされる油壺がいくつか知られているが、そのほとんどは寺内焼である可能性が高い、と指摘している(「秋田手仕事たより」14号、秋田手仕事文化研究会、2001年)。白岩、楢岡、寺内の製品は、それぞれ固有の特徴はあるが、ぱっと見て違いがわからないくらいよく似ている。今回紹介した3点も、すべて寺内焼の可能性すらある。
補足2
東京・有楽町の大江戸骨董市でやはり19世紀のものとおもわれる花立を手に入れた(下の写真)。業者によるとこれは唐津焼の椎ノ峯窯の製品だという。椎ノ峯では相当数の花立を焼いていて、九州一円に出荷したようだ。洗練された、完成された美を感じる。 (2025年9月23日)